ポンペイ「古代の夢の跡」 フェリペU世大学・翻訳学部 PR OFESOR 加 瀬 忠 ポンペイ最期の日の朝 紀元前4世紀以来、古代ギリシャの殖民都市として繁栄を続けていたポンペイ。 運命の紀元79年8月24日、この日もポンペイの人々は、朝から通常の商業活動で忙しく立ち回っていたと言う。この直後の、ベスビオ火山の大噴火を誰が予測できただろうか。 ベスビオ火山から約20K離れたナポリ湾の夕暮れ。このコ ニーデ形をした貴婦人が、一万人以上ものポンペイ市民の命 を奪ったとは信じ難いような美しさだ。遠くに霞む麓の街は、 新しいポンペイとエルコラーノの町々です。 マリーナ門からポンペイ遺跡に入り、まっすぐ進むと、町の行政機 関や裁判所、市場などがあるフォロ(公共施設)・写真左に到着す る。この広場の大きさは東西38メートル、南北142メートルあ ったと言う。上の写真右と下の写真は、ポンペイの街を東西に二分 していた中央大通りです。 ポンペイの街の中央大通り。道路は石で舗装され、幅は2.5メートルから4.5メートルであった。また、左右の歩道は、車道より30センチ高くなっており、通常は雨がふっても足が濡れることがないように設計されていた。道路を横切っている飛び石は、大雨が降って車道が冠水した時のためのものであるが、三つ置いてある飛石の二つの石の幅は、馬車が通れるだけの幅に設計されていたのだと言う。 古代ポンペイの政治形態は「共和制」 アセツリーナの酒場の落書き 10、000人以上の人口を擁し、経済活動も活発であったと考えられる、古代ポンペイの政治形態は「共和制」であったのではないか・・と、私は考えています。それも、現代の議会制民主主義の初期の形であったのではないか。と申しますのは、街の大通り、アッボンダンツァ通りに面したアセッリーナの酒場の壁には、選挙の宣伝文がたくさん書かれてあり、「町役場の役人の選挙に、何人かの候補者を推薦したので、皆さんどうぞよろしくお願いします」との記述が見られるからです。 私が、ポンペイの政治形態を「専制君主制」ではなく「共和制」ではなかったのかと推論するもう一つの論拠は、紀元14年に君臨したローマのアウグストゥス(オクタウィアヌス)帝の政治がこれに近い政治だったと考えらているからです。 「アウグストゥス(オクタウィアヌス)帝は、その長い治世の間に、ローマ帝国に秩序と平和をもたらした。アウグストゥス帝は、実際には専制君主としての権力を持っていたが、共和制の伝統の擁護者としてふるまった。彼は、共和制時代の最高議決機関だった元老院を尊重した」(世界の歴史・HISTORY OF THE WORLD 講談社)とあり、当時の時代的背景にも共通点が見られるからです。 バジリカ(民事裁判所) 「バジリカ」、紀元前2世紀に建てられたこの建物は、文献「ポンペイ・考古学的都市ガイド」(日本語訳 加瀬忠)によると、民事裁判を行うために建てられた建物なのだと伝えられています。 実に驚くんですが、ポンペイという古代都市は、この時代に私法上の法律関係において生起する様々な人間臭い民事事件に対して、民主的な手法で裁判を行っていたのですから。 バジリカ、美しい28本のエンタシス工法(柱の中央部を ふくらませ、安定感を与える)の柱で仕切られたこの建物 では、ポンペイ市民の民事裁判を行うと共に、市民の商談 の場としても大いに利用された。と、考えられている。 ポンペイ市民の食生活 それでは紀元前後、今から1、924年も前のポンペイの人々の食生活は、一体どんなものだったのでしょうか。私は、このことに非常に興味と関心をおぼえます。 資料や秘儀荘の壁画の数々、踊るバッカスの巫女、キタラ(ギリシア琴)を弾くアポロの像、そしてエロスの神々の美しい身体の線は、よほど栄養のバランスが良くないと保てないと思います。紀元前後と言いますと、我が国では弥生文化の時代で、狩猟や採集の生活からやっと稲作、金属器の使用が始まり、各地に小国が分立していた時代ですからね。 主食はパン ポンペイの人々の主食は、パンであったと考えられます。 炭化した食べ物の発見の中に、大きな丸パンを見ることが出来ます。この丸パンは、今、私が住んでいるアランフェスのパン屋さんで売っている丸パンと全く同じです。2、000年前と変わらないんですから驚きます。 パンの造り方も今と同じで、貯蔵しておいた小麦をロバに引かせた挽き臼でひき、粉を作業台でこねて焼いた。パン屋さんは、ポンペイの街に31軒もあったと言う。 野菜・果物 ポンペイの人々が好んだ野菜は、カリフラワーだったようです。この他にキャベツ、レタス、チコリ、バジリコ、クレソン、ニンジン、玉ネギ、ニラネギ、さらに豆類では、そら豆、グリーンピース、エジプト豆等がわかっています。これらの野菜は、日本の八百屋さんでも売っていますね。ああそう、資料によりますと、カリフラワーは生で食べることが多かったようですよ。 次に果物ですが、これも私の大好物が続きます。先ずリンゴ、そしてザクロ、梨(ペラ)、ぶどう、イチジク、プラム、サクランボ、桃、くるみ、アーモンド、オリーブです。野菜は塩漬け、酢漬け、果物は乾燥させて蜂蜜に漬けて保存したようです。 蛋白質類 資料では、野菜・果物類ほど触れられていないのですが、壁画から推測しますと、鶏(雉、ウズラ等の野鳥類)、鴨・鵞鳥、青魚、鯛、鮪、貝類などを好んで食べていたと思われます。 チーズは羊、乳牛のチーズが多かったようで、特に燻製の技術が発達していましたので、羊の燻製チーズは美味だったようです。 調味料 塩とガルム。特にポンペイの人々に美味珍味として評価が高かったのはガルムです。 これは、青魚を塩漬けにして発酵させ、滲出したその上澄み液を調味料としていろいろな料理に使いました。日本では、秋田の「しょっつる(塩汁)」が「ガルム」と同じなのでしょうか。 居酒屋 ポンペイの人たちは、ベスビオ火山の麓で栽培されていたぶどうから、美味しいワインをつくる技術をすでに持っており、居酒屋で大いに飲んでいたようです。つまみに羊の燻製チーズを食べていたようですから、今の私のビノの飲み方と全く同じです。 貨幣経済が発達していた 20、000人以上の人口を擁し、商業活動がかなり活発だったと考えられるポンペイの街の商取引は、どのような形だったのでしょうか。古代においては、一般的に考えれば、品物を貨幣などの媒介物によらず、直接他の品物と交換する物々交換の形態を想起しますよね。この頃の日本は、弥生式文化の時代だったのですから。 ところが、街の大通りに面したテルモポリウム(居酒屋)の壁の中に埋め込まれていた箱の中から、たくさんの銅貨が発掘されたのです。いずれも小銭であったところから、居酒屋の一日の売上であったのではないかと考えられるのですが、これは大変な発見であります。 日本史に目を移してみますと、我が国で初めて貨幣が鋳造されたのは708年です。そうです、中学校の歴史の時間に学習した「和銅開珎」です。710年に平城京に都を移すのですが、我が国で貨幣経済が発達するのは、このずっと後になります。ポンペイの街の経済が、いかに進んだものであったのかがわかります。 まとめ ポンペイの街の豊かな経済生活は、恵まれた立地条件によるところが多かったと考えられます。ナポリ湾に近く、モノや人の移動が、内陸部の国々と比較して有利であったことが、この街の発展に大きく貢献していました。 また、政治形態の項でも触れましたように、この国の政治形態が「専制君主制」ではなく「共和制」であった事が、人々をノビノビと商業活動に専念させる土壌を培ったし、良い意味での競争の原理を導入した経済活動が展開されるバック・グラウンドとなっていたのです。 ポンペイ「夢の跡」を執筆するにあたっては、加瀬 忠個人が資料を分析し、現地調査でまとめ上げたものです。ですから、必ずしも、いわゆる「学説」に裏付けられたものではない記述も多分にあることをご了承ください。 平成15年5月4日(日) マドリッド・フェリペU世大学研究室にて。 参考文献 ポンペイ考古学的都市ガイド(日本語訳 加瀬 忠) パノラマ・世界の歴史 講談社 新しい社会 歴史 東京書籍 新世界史資料 帝国書院 Yahoo! Japan 世界の国々 イタリア