「ドン・キホーテ物語」を読む

 
フェリペU世大学・翻訳学部
 
PROFESOR    加 瀬  忠

 私の住むアランフェスの街は、マドリッドの南50Kに位置する人口が42,000人の小さな街です。この街には、スペイン国王フェリペU世の命で18世紀に完成したアラン フェスの離宮があり、街全体が宮殿を中心に開けています。
 スペインと言えば、セルバンテスの名作「ドン・キホーテ」でも描かれているように、国全体が赤茶けた褐色の乾いた痩せ地をイメージされる方も多いと思いますが、アランフェスの街は、流域一体が肥沃な黒土地帯となっており、街の郊外には畑や緑地帯が広がっています。

 私自身、長い間このラ・マンチャの大地の真っ只中に住み、専攻の「日・西比較文化論」の取材でしばしば訪れるエル・トボソ村やコンスエグラ村、さらにはドン・キホーテの道をたどりながら今、研究テーマである「ドン・キホーテ物語を読む」・・を執筆中です。
 今回は、アランフェス〜エル・トボソ村からプエルト・ラピセまでをまとめましたので、その一端を発表し、「マドリッド通信」に掲載させていただきます。
 
「ドン・キホーテ物語を読む」、を執筆するにあたっては、加瀬 忠個人が収集した資料を分析し、現地調査でまとめ上げたものです。ですから、必ずしも、いわゆる「学説」に裏付けられたものではない記述も多分にあることをご了承ください。

 
ドン・キホーテ物語を読む
 
スペインのラ・マンチャ地方に住む田舎紳士アロンソ・キハーノは、騎士道物語を読みすぎて頭がおかしくなり、自ら遍歴の騎士となって世の中の不正・悪を正そうと思い込み、近くに住む少々頭の弱い欲の皮が突っ張った現実的な百姓男、サンチョ・パンサを口説き落として従士とし、エル・トボソ村に住む田舎娘のドーニャ・アナを想い姫・ドゥルシネーアに仕立て上げ、果てしない世直しの旅に出て数々の奇行・愚行を繰り返します。
 セルバンテスの名作「機知に富んだ郷氏ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」は、主人公ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの狂気と夢が現実の世界とぶつかって生じるこっけいな冒険物語を、二人の相反する性格を浮き彫りにしながら描かれています。
 ドン・キホーテの誇大妄想の世界では、カンポ・デ・クリプターナの風車群は、長い腕を持つ巨人に、旅籠はカスティージョ(城)となってしまうのだから痛快だ。


 
ドン・キホーテコース(1) マドリッド〜アランフェス〜エル・トボソ〜カンポ・デ・クリプターナ〜プエルト・ラピセ〜コンスエグラ〜トレド〜マドリッドを2〜3日間でまわる。
              

                    
 マドリッドのスペイン広場にあるロシナンテ号にまたがった
              ドン・キホーテと太っちょサンチョ・パンサの銅像。後方は
              二人を見つめるセルバンテス。

 
ドン・キホーテコースの解説(1)
 
マドリッドから国道N−W(E−5)を一路アランフェス経由〜オカーニャへ。ここでN−301へ乗り換え、見渡す限り赤茶けて痩せたラ・マンチャの大地をキンタナール・デ・ラ・オルデンの街へ、ここまでマドリッドの街から車で2時間、約160K。 キンタナール・デ・ラ・オルデンの街から、標識(写真)に従って右折。CM−3130号線を10Kでドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアのモデルと
            
   
                
    エル・トボソ村まで9K。キンタナール・デ・ラ・オルデンの街で
                       CM
−3130号線へ(写真左)。エル・トボソ村からTO−110
              1号線を12〜3
K走ってカンポ・デ・クリプターナへ到着する
               (写真右)。


 
なったドニャ・アナの生家のあるエル・トボソ村へ。このあたりの植生は、年間300日以上の晴天と乾いて痩せた褐色の大地に適したオリーブ、ぶどう等と、スプリンクラーを使った小規模な冬小麦の栽培が目立ちます。

 
エル・トボソ村からTO−1101号線を西南西の方向に約12〜3K程走るとカンポ・デ・クリプターナへ到着するのですが、このあたりはラ・マンチャの大地の真っ只中、道中は行けども行けども家も集落もないような石ころだらけの平原。それでも、時折赤茶けた褐色の平原の彼方に、ポツンと忘れ去られたように小さなバルがあり、カフェ・コルタード・コン・イエロー(アイス・コーヒー)、セルベッサ、ビノ等の簡単な飲み物やアセイトゥーナス(オリーブ)、トルティージャ等の簡単なタパス類がおいてあるので心が安らぎます。 カンポ・デ・クリプターナからはN−420号線を西へ走りN−W号線の下をくぐると間もなくプエルト・ラピセの街へ到着します。ドン・キホーテコースは、夏の日中の気温は43〜45度くらいにまで上がり、吹く風は体温を超えるような風で、しかも道中には集落が少なく、街が点と点でつながっているような感じがする中、プエルト・ラピセの街は旅籠やレストランテ、バル等があり、ここで一服して元気回復の時間に充てると、後半の旅もまた快適なものとなります。

 プエルト・ラピセからは
N−W号線を北へ走ると、サフランと風車の街コンスエグラへ到着します。この街は、人口10、000人の小さな街ですが、丘の上には12世紀の城跡と9基の風車が良く整備されて残されており、丘の上からはコンスエグラの白い街並みと、ラ・マンチャの褐色の大平原が一望のもとに見渡すことが出来ますので、是非、丘へ登ってみて下さい。
 コンスエグラからは
CM−400を北へ1時間走るとトレドです。トレドからN−401を北へさらに1時間走るとマドリッドへ到着します。このコースは、ゆっくり走っても、2〜3日で十分まわれますが、トレドのパラドールでの一泊を加えれば、さらに思い出深い旅となることでしょう。

 
ミゲル・デ・セルバンテス(1547〜1616)
 
「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の作者セルバンテスは、1547年にマドリッド近くの大学町、アルカラ・デ・エナーレスで外科医の子として生まれました。セルバンテスが青年時代を過ごした16世紀中頃のスペインは、フェリペU世時代の「太陽の沈むことなき大帝国」として世界に君臨していた時代であり、特に大航海時代の第三期(1530年〜1595年)前後は、新大陸における征服活動の最もめざましい時代でもありました。

 
このような時代的背景のもとに、セルバンテスは22歳で当時スペイン領であったイタリアのナポリに渡って兵士となり、1571年にはレパントの海戦でオスマントルコを破るなど活躍しましたが、左手を負傷し自由を失ってしまいます。1575年に退役して祖国スペインへ帰国の途上、運悪くトルコの海賊に襲われてアルジェへ連行され5年間にわたる奴隷生活を過ごしましたが、この間、セルバンテス自身が首謀者となって反乱や逃亡を試み、英雄的存在になったとも言われているのです。

 
1580年に釈放されて帰国した祖国・スペインでは、レパントの海戦をはじめ、多数の戦功が一切認められることもなく、定職にさえありつけなかったセルバンテスは、文筆活動に専念しますが成功せずに苦しい生活が続きます。
 1587年からは、海軍(スペインの誇った無敵艦隊)の食糧徴発人として、また収税吏として15年のながきにわたってラ・マンチャ、アンダルシアの各地を歩き回り、この間には銀行倒産等のあおりを食って、金銭上のいざこざで2度も投獄されると言う憂き目にもあっているのです。

 海軍・無敵艦隊の食糧徴発人や収税吏というような役どころは、決して民衆から歓迎される役ではないし、加えて夏には40度を超える厳しい暑さ、冬には凍てつくような寒さの続くラ・マンチャやアンダルシアの荒野での毎日の食糧徴発や税の取立ては、仕事とはいえ、セルバンテスの人生観に決定的な影響を与えたであろうことは容易に想像出来ます。このセルバンテス自身の人生体験が、「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の随所に色濃く描写されています。
 セルバンテスの時代の小説・物語には、大きく二つの流れがありました。一つは理想主義的な傾向の騎士道物語。もう一つは徹底したリアリズムを特徴とする小説です。前者は超人的な英雄が活躍し、ヒーローとなる騎士道物語であり、これに対してセルバンテスは、ずっこけたアンチヒーローを創り出すことによってセルバンテス自身が考える現実の「あるべき姿」を描写し、受け入れられたのです。これは、セルバンテスの過去の人生そのものと重なる部分が多く、セルバンテス自身の「パロディー小説」と、位置付けることが出来るのではないでしょうか。

              
           
                     
ミゲル・デ・セルバンテス    ダリが描いたドン・キホーテの素描

 
アランフェス
 
スペインが歴史上有名な無敵艦隊を擁し、七つの海を制覇していたフェリペU世の時代からフェリペW世の時代に至る約100年間(1556年〜1665年)は、スペインの黄金世紀といわれます。この頃、多くのパイオニアたちはアメリカ大陸に渡って大量の金・銀を自国に持ち帰り、インフラの整備、社会資本の蓄積に邁進しました。芸術分野では、ベラスケスがLas Meninas(女官たち)、エル・グレコがEntierro del Conde de Orgaz( オルガス伯の埋葬)等不朽の名作を残し、偉大な作家セルバンテスは名作ドン・キホーテを描きました。そして、スペイン語は英語と共に国際語となるほどの繁栄の基礎を築いたフェリペU世、そのフェリペU世によって拓かれた街がアランフェスなのです。

 
ラ・マンチャの村々へのアプローチ
 
アランフェスをはじめ、ラ・マンチャの村々へのアプローチは、大きく分けて次の三つの方法があリます。
 1 タクシーやレンタ・カー等自動車を使っての移動。
 
2 マドリッドのアトーチャ駅から出ている電車(セルカ二ア)に乗る。
 3 マドリドの南バス・ターミナルから出ているバスを使う。
 
これら三つの方法のうち、時間をかけてラ・マンチャのドン・キホーテ物語の道を、くまなく歩むのでしたら、1のタクシーかレンタ・カーの方法がお勧めです。また、せっかくラ・マンチャの地にいながら、どうしても時間がとれなく、一日か二日で限られた街を訪れるのでしたら、2の電車が便利です。

            


  
ラ・マンチャの荒野をレンタ・カーで
 
マドリッドの街からM―40へ出て、さらに国道W号線を南へ約40K走ると、アランフェスの街へ到着します。
 
スペインと言えば、セルバンテスの名作「ドン・キホーテ」にも描かれているように、国全体が茶褐色の乾いた痩せ地をイメージされる方も多いと思いますが、ここアランフェスは、イベリア半島を東西に流れるタホ川の恵みで、流域一体が沃野の黒土地帯となっています。自動車で訪れるアランフェスの街は、荒涼としたラ・マンチャの大地を走った後だけに、プラタナスの街路樹とその緑陰に一層心が和みます。
 
アランフェスの街は、フェリペU世の王宮を中心にして開けた街なのです。

       

                      
アランフェスの街は、王宮を中心に開けている。

 
電車でアランフェス、カンポ・デ・クリプターナへ
 
ラ・マンチャ地方のアランフェス、カンポ・デ・クリプターナ方面へは、マドリッドのアトーチャ駅から電車が出ています。まるで宮殿のように美しいアトーチャ駅の4番線からアランフェス行きの電車(セルカニア)へ乗ると、45分で終点のアランフェス駅へ到着します。沿線の風景が美しいこの路線、実はアランフェスの王宮へ移動する王侯貴族のためと、アランフェスでとれる名物のイチゴをマドリッドの王宮へ運ぶために、1851年に敷設されたスペインで二番目に古い鉄道なのです。

             

                      
マドリッドのアトーチャ駅からセルカ二アで45分、赤煉瓦造
              りの美しいアランフェス駅全景。


 
アランフェス駅から離宮までは、手入の行き届いたプラタナスの並木道を歩いて15分。春は若葉の鮮やかな浅緑が、そして秋は黄金色に黄葉したプラタナスの木々と落ち葉の絨毯を踏みしめて歩むCarretera de Toledo(トレド通り)の静かな空間は、格別な美しさです。

 
Palacio Real(王宮)
 
アランフェスの王宮は、首都をトレドからマドリッドに移したフェリペU世が1561年に本格的な王宮建設をおもいたち、歴代国王の時代を経て18世紀の後半、カルロス三世の時代に完成したのです。バロック様式も一部とり入れたルネッサンス様式で統一された調和のとれた荘厳な美しさは、見る者を圧倒します。宮殿内部には、それぞれに意匠を凝らした27もの部屋がありますが、中でも「王座の間」「陶器の間」「アラビア風サロン」は圧巻です。
 
アランフェスの王宮は一般公開されていますから、王宮内部を見学することが出来ます。スペイン語、英語、フランス語等のグループ編制でガイドが丁寧に説明してくれます。また、写真・ビデオ撮影等も、フラッシュがなければ許可してくれますから、カメラ持参で訪れるとよいでしょう。
                  
Salon del Trono(王座の間)
                   

                    
 Salon del Trono(王座の間)」は、赤のビロード張
               りの壁とフランスのル
イ15世時代の装飾様式である
               ロココ調の家具が配置されている。

           
                           
Salon de porcelana(陶器の間)
                   
Salon de porcelana(磁器の間)」は、部屋全体が草花模様、人物、動物等 の見事な焼き物で飾られている。この珍しい装飾はカルロス三世によってナポリから呼ばれたデザイナーのグリッチ、エンジニアのシェペルスらの合作によって完成した。また磁器はマドリッドのブエン・レティーロの窯業 所で焼かれたものである。

                  
Salon Arabe(アラビア風サロン)
                   

                    
 Salon Arabe(アラビア風サロン)」は、グラナダの
               アルハンブラ宮殿「二
姉妹の間」を複製したものです。

 
アランフェスの離宮で描かれた「カルロス四世とその家族」
 
「カルロス四世とその家族」は、ゴヤの代表的なタブローの一つですが、この代表作を描くために、カルロス四世の家族13人はアランフェスの離宮に呼び集められた、といわれています。プラド美術館にある縦280センチ、横336センチのこの大作、ゴヤが首席宮廷画家に任じられた1899年の翌年に描かれているのです。

                

                         
ゴヤの代表的なタブロー「カルロス四世とその家族」

 
Concierto de Aranjuez(アランフェス協奏曲)
 
ホアキン・ロドリーゴの名曲「Concierto de Aranjuez(アランフェス協奏曲)」、その哀愁を帯びた優雅で上品なメロディーは、アランフェスの宮殿を舞台に、18世紀後半にスペインの巨匠、ゴヤが描いた宮廷の中の風景や人間模様をモチーフに作曲されたと言われています。
 
特に私たちにも馴染みの、Segundo  Movimiento(第二楽章)のアダージョは、ロドリーゴ夫妻のラブ・ロマンスとタホ川のせせらぎとのノスタルジック・サウンドとして語りかけてくれているようです。

              

                    
  アランフェス協奏曲第二楽章・アダージョの曲想
               が浮かんだと言われている美しい「
Jardin de la Isla
               (島の庭園)」と
Rio Tajo(タホ川)のせせらぎ。

         
          
          
総面積150万平方メートルのJardin del           王子の庭園の中にあるレストランテEl
          Principe
(王子の庭園)。カルロス四世の命      Castillo。長い歴史と伝統を感じさせる。
      
で18世紀末に造営された庭園で、市民の憩      カルロス国王やホアキン・ロドリーゴが
      いの場となっている。西洋ポプラの並木道      
お忍びで訪れたレストランテとしても有
      
が美しい。                    名である。

                        
              Casa de Marinos
(船乗りの家)。 かつてスペインの王族がRio Tajo(タホ川)
         での船遊びの拠点となった船乗りの家(左)には、カルロスW世、イ サベルU世
         などの王家の船が展示されている(右)。


 
エル・トボソ村
 
ドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアのモデルとなった、ドーニャ・アナが住んでいた村です。村の中心は、ファン・カルロス一世広場で、広場近くのセルバンテス図書館には、世界各国で翻訳された「ドン・キホーテ」が陳列されています。また、広場から歩いて2〜3分程の
CASA  MUSEO  DE  DULCINEA(ドゥルシネーアの家)は一般公開されており、一階には16世紀の農機具や巨大なオリーブ・オイル搾り機等が展示され、二階には当時のままに家具・調度品、寝室等が展示されています。

            

 ファン・カルロス一世広場のドン・キホーテとドゥルシネーア。想い姫の前にひざま ずくドン・キホーテの姿がセルバンテスの姿とオーバー・ラップし、ラ・マンチャの真っ只中にいることを感じさせる。

         
          
       
   ドゥルシネーアの家(左)とエル・トボソ村の中心、ファン・カルロス一世広場(右)。

 
カンポ・デ・クリプターナ
 
−本 文―
 「サンチョ・パンサよ、どうやら運命の女神はわれわれが望んでいたよりもはるかに順調に、事を運んで下さるとみえるぞ。ほら、あそこを見るがよい。三十かそこらの、ふらちな巨人どもが姿を現したではないか。拙者はやつらと一戦をまじえ、やつらを皆殺しにし、やつらから分捕ったもので、おまえともども裕福になろうと思うのだ。」
 「逃げるでないぞ、卑怯でさもしい鬼畜ども。おぬしらに立ち向かうは、たった一人の騎士なるを知れ。」
 この時、一陣の風が吹き起こって、大きな風車の翼がいっせいに動き出した。それを見ると、ドン・キホーテはこう叫んだ。
 「たとえ、おぬしらがかの巨人ブリアレーオより多くの腕を動かしたところで、わしが目にもの見せずにおくものか。」
 こう口走った彼は、危機をむかえたわが身を救いたまえと、想い姫ドゥルシネーアに心をこめて祈念しながら、盾をしっかりとかまえ、槍を小脇にかいこんで、ロシナンテを全速力で駆けさせ、一番手前にあった風車に突撃した。ところが、彼が思いきり槍を突きたてたその瞬間、風が激しい勢いで翼をまわしたものだから、その槍がへし折れただけでなく、馬と乗り手もそっくり翼にさらわれて、反対側にほうり出され、むざんにも野原をころがるしまつだった」

           

 風車を巨人だと思い込んで「逃げるでないぞ、卑怯者・・」と叫びながら突進する主人公ドン・キホーテ。物語で有名なあのシーンは、カンポデ・クリプターナの丘に建つ粉挽き用の風車であった。物語では「30かそこいらのふらちな巨人ども」と、書かれているが、現在は10基の風車が修復されている。

 
プエルト・ラピセ
 
「・・とある旅籠屋で、ドン・キホーテは騎士の称号を受ける儀式」を行います。その旅籠屋がこの街にあるベンタ・デル・キホーテ(ドン・キホーテ亭)です。セルバンテスは、この旅籠に何度も泊まったことがある、と伝えられています。
 小説ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャでは、愛すべき我らが遍歴の騎士・英雄ドン・キホーテの食生活について、「昼は羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み、たいがいの晩は昼の残り肉に玉ねぎを刻み込んだからしあえ、土曜日には塩豚の卵あえ、金曜日にはランテーハ(扁豆)、日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて、これで収入の四分の三が費えた」とありますが、ベンタ・デル・キホーテでは、当時のメニューをそのまま再現してくれています。「昼は羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み料理」のコシードは、ラ・マンチャの風土に合った料理です。スペインでは、コルデロ(羊肉)よりも牛肉の方が安く、実際ラ・マンチャの煮込み料理には牛肉が使われるのが一般的です。また、「昼の残り肉に玉ねぎを刻み込んだからしあえ」は、今でもスーぺル・メルカド(スーパー・マーケット)へ行くと、調理前の素材で売っていますが、これを買ってきて焼いて食べますと、ビノ・ティント(赤ワイン)と実によく合います。「日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて」のくだりを見ると、ここでは、鳩のごちそうも食べていたことがわかります。エル・トボソ村でドゥルシネーアの家を見学していた時、裏庭にたくさんの鳩の家があったことを思い出します。スペインの人たちは、雉、鶉、鳩といった、日本ではなじみの無い野鳥料理が大好きでして、アランフェスの我が家の近くにも「エル・ファイサン」と言う、雉料理専門店があり、王侯貴族が好んで食べる料理として有名です。
 それにしましても、収入の四分の三が食費とは、エンゲル係数の高い食事ですね。

             

 プエルト・ラピセの旅籠「ベンタ・デル・キホーテ(ドン・キホーテ亭)」。ドン・キホーテが騎士の称号を受けた旅籠は、現在はレストランテ兼土産物店となっており、レ ストランテではラ・マンチャ名物のコシード(煮込み料理)や特産の熟成した羊のチーズ「ケソ・マンチェーゴ」を食べさせてくれます。(写真上・下)

                


 
英雄の誕生
  
    
 
―本 文―
 
「それほど昔のことではない。その名は思い出せない(思い出したくない)が、スペインはラ・マンチャ地方のある村に、槍や古びた盾を部屋に飾り、やせ馬と足のはやい猟犬をそろえた、型どおりの紳士が住んでいた。家には四十歳を過ぎた家政婦と、まだ二十歳まえの姪、それに、畑仕事や使い走りをするだけでなく、やせ馬に鞍をつければ、庭木の刈り込みもする若者がいた。そして、われらの主人公となる紳士は、やがて五十歳になろうとしていた。骨組みはがっしりとしていたものの、やせて、頬のこけていた彼は、大変な早起きで、狩が大好きであった。
 ところで、知っておいてもらいたいのは、この紳士が、ひまさえあれば(もっとも、一年中たいていひまだったが)、われを忘れて、むさぼるように騎士道物語を読みふけったあげく、ついには狩に出かけることはおろか、家や田畑を管理することもすっかり忘れてしまった、ということである。
 さて、思慮分別をすっかり無くした紳士は、これまで世の狂人のだれ一人として思いつきもしなかったような、何とも奇妙な考えにおちいることになった。つまり、みずから鎧かぶとに身を固め、馬にまたがって遍歴の騎士となり、世界中を歩き回りながら、読み覚えた遍歴の騎士のあらゆる冒険を実際に行うことによって、世の中の不正を取り除き、いかなる危険にも身をさらしてそれを克服し、かくして、とこしえに語り継がれる手柄を立てることこそ、自分の名誉をいやますためにも、国に尽くすためにも、きわめて望ましいと同時に、必要なことであると考えたのである。」


 
―考 察―
 故郷を遠く離れて生活している人は、誰でも生まれ育った故郷がなつかしく、齢を重ねるごとに、物心がついた頃に通った学校や友・日が暮れるのも忘れて遊んだ山や川のことを思い、たまらないノスタルジアを感ずるものだと思うのですが、セルバンテスは「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の書き出しの冒頭部分で「それほど昔のことではない。その名は思い出せない(思い出したくない)が、スペインはラ・マンチャ地方のある村に・・中略」「そこである夜、ドン・キホーテは家政婦や姪に別れを告げることも無く、またサンチョのほうも、妻や子に何も言わずに、二人はこっそりと村を抜け出した。」と、述べています。
 この書き出し部分でもわかるように、セルバンテスの脳裏には現実の生活に対するさまざまな思いが去来し、錯綜していたのではないでしょうか。レパントの海戦での戦功に対する恩賞の不公平、生涯に何度も経験する投獄生活での屈折した日々、故郷に帰っても定職さえなく、海軍の食糧徴発人として、また収税吏として夏は酷暑の、冬は凍てつくような寒さのアンダルシアの荒野を歩き回った不毛の日々に対する慟哭の思いが、冒頭部分の書き出しとなっているものと考えられます。
 セルバンテスが「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」前編を出版したのは、1605年、セルバンテスが58歳の時です。10年の時を経て1615年、68歳の時に後編を出版しているのですが、一般的にみて、現在のサラリーマンの定年退職年齢前後に、前編の大作をまとめ上げ、さらに1615年、作者自身が亡くなる一年前に物語全体をまとめ上げると言う、セルバンテスの一連の創作活動を振り返る時、やはり作者自身の偉大性とともに、その特殊性を考えてしまいます。
 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と言う名作。悠久の歴史の流れの中でも忘れ去られること無く、世界の歴史とともに生き続けている作品は、現代流に言えば、極めて「知的付加価値」の高い作品であります。これだけ「知的付加価値」の高い作品を書き上げるためには、並々ならぬエネルギーが必要であったと考えられるのですが、それを人生後半の58歳の時に前編を、そして68歳の時に後編を完結させると言う、常人では為し得ないことを、気負うことなく完結させたセルバンテスの人間的・精神的な強さを改めて感じ入るのであります。

平成15年12月 5日(金)
フェリペU世大学・翻訳学部研究室にて 加瀬 忠。

 参考文献 ドン・キホーテ セルバンテス作 牛島信明編訳
     
ワールド・ガイド ヨーロッパ7スペインJTB
     
スペイン・ポルトガルを知る辞典 平凡社
     
スペイン・ハンドブック     三省堂
     
YAHOO! JAPAN スペイン