マドリッド通信−101

 フェリペU世大学・翻訳学部
 PROFESOR   加 瀬   忠


                           古代ポンペイの芸術

          
― 神秘的な美しさ・ポンペイの赤 ―

 「2000年前、ベスビオ火山の突然の噴火で埋没したポンペイには『ポンペイの赤』と呼ばれる、赤を基調とした見事なビーナスの壁画の数々が残されている」。ポンペイの古代遺跡調査に向かう前に、私は、予備知識としてはその存在を知っていました。

 
ベスビオ周遊鉄道でナポリ中央駅からポンペイに向かい、ヴィツラ・ディ・ミステリ駅で下車しました。駅前から正面入り口のマリーナ門までは、歩いてほんの数分。マリーナ門からポンペイ遺跡へ入場して、北西方向へめざす「秘儀荘」へと歩を進め、執政官通りから一旦エルコラーノ門を出て、「秘儀荘」へ辿り着きました。

 
階段をおりて建物奥の「秘儀の間」に描かれた「ポンペイ・レッド」を基調とした「ディオニュソス秘儀の絵」や鮮やかな赤(写真)で描かれた壁画の数々を見て、私は、一瞬立ちすくんでしまいました。2000年もの間、4メートル以上の火山灰・礫に埋もれ、風雨にさらされてもなお、この美しい色彩を失わなかったのですから、古代ポンペイの芸術家は、一体どのような絵の具を用い、どのような描き方をしていたのでしょうか。まさに「目から鱗が落ちる」思いでした。

           

 
ディオニュソス(バッコス)は、ギリシャ神話に登場する酒の神ですが、古代のローマでは、ディオニュソスの神が広く人々の信仰の対象とされていました。

 
約2000年もの間、あの美しい「ポンペイの赤」が失われなかった秘密は、どうやら絵具と仕上げにあリました。絵の具・・石灰とロウを加えた石鹸水に色を混ぜて絵具を作っていたようです。仕上げ・・鉄ごて、大理石のローラーや磨き石等で描いた絵を磨いた後、最後に布でつやだしをして仕上げていたようです(加瀬 忠現地調査)。


           

 
      セメレの妊婦とディオニュソス(バッコス)の誕生を描いた絵だといわれています。


 
世界の人々から奇跡の「ポンペイ・レッド(ポンペイの赤)」と呼ばれる鮮やかな赤を基調にして描かれたこの壁画は、ヴィラ・ディ・ミステリー(秘儀荘)の邸内奥の秘密の部屋を一周する形で、四つの壁に様々な場面が描かれています。この壁画に登場する人物は、ディオ二ュソス(酒の神・バッコス)を中心にして、29人の人物が描かれていますが、物語の流れは、当時ローマで流行していたディオニュソスの神を信仰する「ある種の宗教(秘教会)」への入信式の様子が描かれているのではないか、と考えられます。

           



           

 セメレとディオニュソス(写真左)とギリシャ神話に登場する酒の神・バッカス(ディオニュソス)への貴婦人の入信の儀式(写真右)の壁画です。



 古代ポンペイ人の人生観


 ― 古代ポンペイのディオニュソス神話と人生、その愛と死 ―

 
ポンペイの人々は、人生におけるどのような瞬間にも、それが愛する人との楽しい一時でさえも、人生の「死」という極めて現実的でラジカルなる事実を忘れはしなかったのです。
 この世に生まれ出で、時が流れてやがて成人となり、そして人を愛し、ディオニュソスの神々にその身を捧げても尚、時が経過して「死」が訪れるという、人生の厳粛なる事実を決して忘れることはなかったのです。

 ウェヌス(ビーナス)の家
 ポンペイの街の中心フォルムから、アボンダンザ通りを円形闘技場へ向かって歩くと、間もなく右手に「ウェヌス(ビーナス)の家」があリます。中庭を進み、奥の壁正面に「貝の中のウェヌス(ビーナス)」が描かれていますが、私は、この壁画を見た時、ルネッサンス期にイタリアのポッティチェッリが描いた「ヴィ―ナスの誕生」の絵を連想しました。どちらも海・貝の中・ウェヌスと、全く同じ構想で描いたとしか思えないような作品です。時代は相当隔たっていますが、愛の女神ビーナスに対する思いは少しも変わっていないのだと思われます。

               


 
貝の上に横たわる愛の神ウエヌス(ビーナス)です。控え目だが官能的で物憂げな雰囲気が漂っています。ポンペイの市民は、海から生まれた美の女神ウェヌスを熱心に崇拝していたのです。