「ドン・キホーテ物語」を読む


 フェリペU世大学・翻訳学部
 元PROFESOR 加 瀬   忠

 スペインのラ・マンチャ地方に住む田舎紳士アロンソ・キハーノは、騎士道物語を読みすぎて頭がおかしくなり、自ら遍歴の騎士となって世の中の不正・悪を正そうと思い込み、近くに住む少々頭の弱い欲の皮が突っ張った現実的な百姓男、サンチョ・パンサを口説き落として従士とし、エル・トボソ村に住む田舎娘のドーニャ・アナを想い姫、ドゥルシネーアに仕立て上げ、果てしない世直しの旅に出て数々の奇行・愚行を繰り返します。

 セルバンテスの名作「機知に富んだ郷氏ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」は、主人公ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの狂気と夢が現実の世界とぶつかって生じる滑稽な冒険物語を、二人の相反する性格を浮き彫りにしながら描かれています。ドン・キホーテの誇大妄想の世界では、カンポ・デ・クリプターナの風車群は、長い腕を持つ巨人に、旅籠はカスティージョ(城)となってしまうのだから痛快です。

                

                       
マドリッドのスペイン広場にある、痩せ馬ロシナ
                ンテ号にまたが
った、ドン・キホーテと太っちょ
                サンチョ・パンサの銅像。


 ドン・キホーテコース(1) 筆者が愛車のロシナンテ号で実際に辿った、マドリッドからラ・マンチャの大地一周コースを紹介します。ラ・マンチャの広大なメセータ大地は、集落と次の集落とは点と点でつながっているだけです。都会の生活感覚でコースを考えないで、いろいろな緊急事態を想定したプランが良いと思います。
 
マドリッド〜アランフェス〜エル・トボソ村〜カンポ・デ・クリプターナ〜アルガマシージャ・デ・アルバ村〜プエルト・ラピセ〜コンスエグラ〜トレド〜マドリッドを、車で3日間かけてまわった。

 
コースの解説
 
マドリッドから国道N−W(E−5)を一路アランフェス経由〜オカーニャへ。ここでN−301へ乗り換え、見渡す限り赤茶けて痩せたラ・マンチャの大地をキンタナール・デ・ラ・オルデンの街へ。ここまでマドリッドの街から車で2時間、約160Kキンタナール・デ・ラ・オルデンの街から、標識(写真・左)に従って右折します。

                    
  
         エル・トボソ村まで9K。キンタナール・デ・ラ・オルデンの街でC
                  M
−3130号線へ、エル・トボソ村からTO−1101号線を12
           〜3
K走ってカンポ・デ・クリプターナへ到着します(写真右)。

 CM −3130号線を10Kでドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアのモデルとなったドーニャ・アナの生家のあるエル・トボソ村へ到着します。このあたりの植生は、年間300日以上の晴天と乾いて痩せた褐色の大地に適したオリーブ、ぶどう等と、スプリンクラーを使った小規模な冬小麦の栽培が目立ちます。
 
エル・トボソ村からTO−1101号線を西南西の方向に約12〜3K程走るとカンポ・デ・クリプターナへ到着するのですが、このあたりはラ・マンチャの大地の真っ只中、道中は行けども行けども家も集落もないような石ころだらけの平原です。それでも、時折赤茶けた褐色の平原の彼方に、小さなバルがあり、カフェ・コルタード・コン・イエロー(アイス・コーヒー)、セルベッサ(ビール)、ビノ(ワイン)等の簡単な飲み物やアセイトゥーナス(オリーブ)、トルティージャ(スペイン・オムレツ等の簡単なタパス類がおいてあるので心が安らぎます。

 
カンポ・デ・クリプターナからはN−420号線を西へ走りN−W号線の下をくぐると間もなくプエルト・ラピセの街へ到着します。ドン・キホーテコースは、夏の日中の気温は43〜45度くらいにまで上がり、吹く風は体温を超えるような風で、しかも道中には集落が少なく、街が点と点でつながっているような感じがする中、プエルト・ラピセの街は旅籠やレストランテ、バル等があり、ここで一服して元気回復の時間に充てると、後半の旅もまた快適なものとなります。

 プエルト・ラピセからは
N−W号線を北へ走ると、サフランと風車の街コンスエグラへ到着します。
 コンスエ
グラは、人口10、000人の小さな街ですが、丘の上には12世紀の城跡と9基の風車が良く整備されて残されており、丘の上からはコンスエグラの白い街並みと、ラ・マンチャの褐色の大平原が一望のもとに見渡すことが出来ますので、是非、丘へ登ってみて下さい。
 コンスエグラからは
CM−400を北へ1時間走るとトレドです。トレドからN−401を北へさらに1時間走るとマドリッドへ到着します。このコースは、ゆっくり走っても、2〜3日で十分まわれますが、トレドのパラドールでの一泊を加えれば、さらに思い出深い旅となるでしょう。

 ミゲール・デ・セルバンテス(1547〜1616)
 
「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の作者セルバンテスは、1547年にマドリッド近くの大学町、アルカラ・デ・エナーレスで外科医の子として生まれました。セルバンテスが青年時代を過ごした16世紀中葉のスペインは、フェリペU世時代の「太陽の沈むことなき大帝国」として世界に君臨していた時代であり、特に大航海時代の第三期(1530年〜1595年)前後は、新大陸における征服活動の最もめざましい時代でもありました。

 
このような時代的背景のもとに、セルバンテスは22歳で当時スペイン領であったイタリアのナポリに渡って兵士となり、1571年にはレパントの海戦でオスマントルコを破るなど活躍しましたが、左手を負傷し自由を失ってしまいます。1575年に退役して祖国スペインへ帰国の途上、運悪くトルコの海賊に襲われてアルジェへ連行され5年間にわたる奴隷生活を過ごしましたが、この間、セルバンテス自身が首謀者となって反乱や逃亡を試み、英雄的存在になったとも言われています。
 
1580年に釈放されて帰国した祖国・スペインでは、レパントの海戦をはじめ、多数の戦功が一切認められることもなく、定職にさえありつけなかったセルバンテスは、文筆活動に専念しますが成功せずに苦しい生活が続きます。
 1587年からは、海軍(スペインの誇った無敵艦隊)の食糧徴発人として、また収税吏として15年の長きにわたってラ・マンチャ、アンダルシアの各地を歩き回り、この間には銀行倒産等のあおりを食って、金銭上のいざこざで2度も投獄されると言う憂き目にもあっています。
 海軍・無敵艦隊の食糧徴発人や収税吏というような役どころは、決して民衆から歓迎される役ではないし、加えて夏には40度を超える厳しい暑さ、冬には凍てつくような寒さの続くラ・マンチャやアンダルシアの荒野での毎日の食糧徴発や税の取立ては、仕事とはいえ、セルバンテスの人生観に決定的な影響を与えたであろうことは容易に想像出来ます。このセルバンテス自身の人生体験が、「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の随所に色濃く描写されています。

 セルバンテスの時代の小説・物語には、大きく二つの流れがありました。一つは理想主義的な傾向の騎士道物語。もう一つは徹底したリアリズムを特徴とする小説です。前者は超人的な英雄が活躍し、ヒーローとなる騎士道物語であり、これに対してセルバンテスは、ずっこけたアンチヒーローを創り出すことによってセルバンテス自身が考える現実の「あるべき姿」を描写し、受け入れられたのです。これは、セルバンテスの過去の人生そのものと重なる部分が多く、セルバンテス自身の「パロディー小説」と、位置付けることが出来ます。

                
         
               ミゲル・デ・セルバンテス   ダリが描いたドン・キホーテの素描

 ラ・マンチャの村々へのアプローチ
 アランフェスをはじめ、ラ・マンチャの村々へのアプローチは、大きく分けて次の三つの方法があリます。
 1 タクシーやレンタ・カー等車を使っての移動。
 
2 マドリッドのアトーチャ駅から出ている電車に乗る。
 
3 マドリッドの南バス・ターミナルから出ているバスを使う。
 
 これら三つの方法のうち、時間をかけてラ・マンチャのドン・キホーテ物語の道を、くまなく歩むのでしたら、1のタクシーかレンタ・カーの方法がお勧めです。また、せっかくラ・マンチャの地にいながら、どうしても時間がとれなく、一日か二日でアランフェスやアルカサール・デ・サン・ファン等、限られた街を訪れるのでしたら、2の電車が便利です。

 ラ・マンチャの荒野を車で

 マドリッドの街からM―40へ出て、さらに国道W号線を南へ約40K走ると、アランフェスの街へ到着します。自動車で訪れるアランフェスの街は、荒涼としたラ・マンチャの大地を走った後だけに、プラタナスの街路樹とその緑陰に心が和みます。

 
電車でアランフェス、カンポ・デ・クリプターナへ
 ラ・マンチャ地方のアランフェス、カンポ・デ・クリプターナ方面へは、マドリッドのアトーチャ駅から電車が出ています。まるで宮殿のように美しいアトーチャ駅の4番線からアランフェス行きの電車へ乗ると、45分で終点のアランフェス駅へ到着します。沿線の風景が美しいこの路線、実はアランフェスの王宮へ移動する王侯貴族のためと、アランフェスでとれる名物のイチゴをマドリッドの王宮へ運ぶために、1851年に敷設されたスペインで二番目に古い鉄道です。

 アランフェス駅から離宮までは、手入の行き届いたプラタナスの並木道を歩いて15分。春は若葉の鮮やかな浅緑が、そして秋は黄金色に黄葉したプラタナスの木々と落ち葉の絨毯を踏みしめて歩むCarretera de Toledo(トレド通り)の静かな空間は、格別な美しさです。

 アランフェス

 
スペインが歴史上有名な無敵艦隊を擁し、七つの海を制覇していたフェリペU世の時代からフェリペW世の時代に至る約100年間(1556年〜1665年)は、スペインの黄金世紀といわれます。この頃、多くのパイオニアたちはアメリカ大陸に渡って大量の金・銀を自国に持ち帰り、インフラの整備、社会資本の蓄積に邁進しました。芸術分野では、ベラスケスがLas Meninas(女官たち)、エル・グレコがEntierro del Conde de Orgaz( オルガス伯の埋葬)等不朽の名作を残し、偉大な作家セルバンテスは名作ドン・キホーテを描きました。そして、スペイン語は英語と共に国際語となるほどの繁栄の基礎を築いたフェリペU世、そのフェリペU世によって拓かれた街がアランフェスです。

 
Palacio Real(王宮)
 
アランフェスの王宮は、首都をトレドからマドリッドに移したフェリペU世が1、561年に本格的な王宮建設をおもいたち、歴代国王の時代を経て18世紀の後半、カルロス三世の時代に完成しました。バロック様式も一部とり入れたルネッサンス様式で統一され、調和のとれたその荘厳な美しさは見る者を圧倒します。宮殿内部には、それぞれに意匠を凝らした27もの部屋がありますが、中でも「王座の間」「陶器の間」「アラビア風サロンの間」は圧巻です。

 
アランフェスの王宮は一般公開されていますから、王宮内部を見学することが出来ます。スペイン語、英語、フランス語等のグループ編制でガイドが丁寧に説明してくれますし、写真・ビデオ撮影等もフラッシュがなければ許可してくれますから、カメラ持参で訪れるとよいでしょう。王宮内部の見学時間はおおよそ1時間程度です。ガイド・ツアー終了後、歴代国王をはじめ王室関係者の衣装、生活用品等が展示された部屋の前を通りますが、ここは自由に見学出来ますから、ゆっくりと自分のペースで見学すると良いと思います。スペイン歴代国王の生活を垣間見ることが出来、スペイン王室が一層身近に感じられるようになることでしょう。

         

 
         パレハス広場から王宮を望む。王宮手前のアーケード内が「王宮通り」。

 
Salon del Trono(王座の間)

           

 
          Salon del Trono(王座の間)」は、赤のビロード張りの壁とフランスのル
            イ15世時代の装飾様式であるロココ調の家具が配置されています。

 
Salon de porcelana(陶器の間)

            
           
 
     Salon de porcelana(磁器の間)」は、部屋全体が草花模様、人物、動物等の見事な焼き物で
       飾られている。この珍しい装飾は、カルロス三世によってナポリから呼ばれたデザイナーの
       グリッチ、エンジニアのシェペルスらの合作によって完成した。また、磁器は、マドリッド
       のブエン・レティーロの窯業所で焼かれたものです。

 
Salon Arabe(アラビア風サロン)

            
      「
Salon Arabe(アラビア風サロン)」は、グラナダのアルハンブラ宮殿「二姉妹の間」を
       複製したものです。

 アランフェスの離宮で描かれた「カルロス四世とその家族」
 「カルロス四世とその家族」は、ゴヤの代表的なタブローの一つですが、この代表作を描くために、カルロス四世の家族13人はアランフェスの離宮に呼び集められた、といわれています。プラド美術館にある縦280センチ、横336センチのこの大作、ゴヤが首席宮廷画家に任じられた1899年の翌年に描かれました。

                
 
          ゴヤの代表的なタブロー「カルロス四世とその家族」

 
Concierto de Aranjuez(アランフェス協奏曲)
 
ホアキン・ロドリーゴの名曲「Concierto de Aranjuez(アランフェス協奏曲)」、その哀愁を帯びた優雅で上品なメロディーは、アランフェスの宮殿を舞台に、18世紀後半にスペインの巨匠、ゴヤが描いた宮廷の中の風景や人間模様をモチーフに作曲されたと言われています。
 
特に私たちにも馴染みの、Segundo  Movimiento(第二楽章)のアダージョは、ロドリーゴ夫妻のラブ・ロマンスとタホ川のせせらぎとのノスタルジック・サウンドとして語りかけているようです。

                       
 
            アランフェス協奏曲第二楽章・アダージョの曲想が浮かん
              だと言われている美しい「
Jardin de la Isla(島の庭園)」と
  
                 Rio Tajo(タホ川)のせせらぎ。

                    
 総面積150万平方メートルのJardin del Principe(王子の庭園)。カルロス四世の命で18世紀末に造営された庭園で、市民の憩いの場となっている。西洋ポプラの並木道が美しい(写真左)。王子の庭園の中にあるレストランテEl Castilloは、長い歴史と伝統を感じさせ(写真右)、カルロス国王やホアキン・ロドリーゴがお忍びで訪れるレストランテとしても有名です。
            
  
                Casa de Marinos
(船乗りの家・写真左)。かつてスペインの王族がRio
                Tajo
(タホ川)での船遊びの拠点となった船乗りの家には、カルロスW
          世、イサベルU世などの王家の船が展示されています(写真・右)。


 エル・トボソ村
 ドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアのモデルとなった、ドーニャ・アナが住んでいた村です。村の中心は、ファン・カルロス一世広場で、広場近くのセルバンテス図書館には、世界各国で翻訳された「ドン・キホーテ」が陳列されています。また、広場から歩いて2〜3分程のCASA  MUSEO  DE  DULCINEA(ドゥルシネーアの家)は一般公開されており、一階には16世紀の農機具や巨大なオリーブ・オイル搾り機等が展示され、二階には当時のままに家具・調度品、寝室等が展示されています。

                   
 
         ファン・カルロス一世広場のドン・キホーテとドゥルシネーア。想
           い姫の前にひざま
ずくドン・キホーテの姿がセルバンテスの姿とオ
           ーバー・ラップし、ラ・マンチャの
真っ只中にいることを感じさせ
          ます。


                    
 
     ドゥルシネーアの家(左)とエル・トボソ村の中心、ファン・カルロス一世広場(右)。

 
カンポ・デ・クリプターナ

   −本 文―

 「サンチョ・パンサよ、どうやら運命の女神は、われわれが望んでいたよりもはるかに順調に、事を運んで下さるとみえるぞ。ほら、あそこを見るがよい。三十かそこらの、ふらちな巨人どもが姿を現したではないか。拙者はやつらと一戦をまじえ、やつらを皆殺しにし、やつらから分捕ったもので、おまえともども裕福になろうと思うのだ。」
 「逃げるでないぞ、卑怯でさもしい鬼畜ども。おぬしらに立ち向かうは、たった一人の騎士なるを知れ。」
 この時、一陣の風が吹き起こって、大きな風車の翼がいっせいに動き出した。それを見ると、ドン・キホーテはこう叫んだ「たとえ、おぬしらが、かの巨人ブリアレーオより多くの腕を動かしたところで、わしが目にもの見せずにおくものか。」
 こう口走った彼は、危機をむかえたわが身を救いたまえと、想い姫ドゥルシネーアに心をこめて祈念しながら、盾をしっかりとかまえ、槍を小脇にかいこんで、ロシナンテを全速力で駆けさせ、一番手前にあった風車に突撃した。ところが、彼が思いきり槍を突きたてたその瞬間、風が激しい勢いで翼をまわしたものだから、その槍がへし折れただけでなく、馬と乗り手もそっくり翼にさらわれて、反対側にほうり出され、むざんにも、野原をころがるしまつだった。
 サンチョ・パンサは主人を助け起こそうと、ロバを急がせて駆けつけたが、当のドン・キホーテは身動きもままならぬありさまであった。騎士はロシナンテもろとも、完全にうちのめされていたのである。
 「やれやれ、なんてこった!」と、サンチョが言った。「ご自分のなさることにようく気をおつけなさいまし、あれはただの風車で巨人なんかじゃねえと、おらがだんなさまに言わなかっただかね。」・・「黙れ、友のサンチョよ」・・。

           
           
 
     風車を巨人だと思い込んで「逃げるでないぞ、卑怯者・・」と叫びながら突進する主
       人公ドン・キホーテ。物語で有名なあのシーンは、カンポ・デ・クリプターナの丘に
       建つ粉挽き用の風車(写真・上)であった。物語では「30かそこいらのふらちな巨
       人ども」と、書かれていますが、現在は10基の風車が修復されています。

 プエルト・ラピセ
 「・・とある旅籠屋で、ドン・キホーテは騎士の称号を受ける儀式」を行います。その旅籠屋がこの街にあるベンタ・デル・キホーテ(ドン・キホーテ亭)です。セルバンテスは、この旅籠に何度も泊まったことがある、と伝えられています。
 小説ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャでは、愛すべき我らが遍歴の騎士、英雄ドン・キホーテの食生活について、「昼は羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み、たいがいの晩は昼の残り肉に玉ねぎを刻み込んだからしあえ、土曜日には塩豚の卵あえ、金曜日にはランテーハ(扁豆)、日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて、これで収入の四分の三が費えた」とありますが、ベンタ・デル・キホーテでは、当時のメニューをそのまま再現してくれています。「昼は羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み料理」のコシードは、ラ・マンチャの風土に合った料理です。スペインでは、コルデロ(羊肉)よりも牛肉の方が安く、実際ラ・マンチャの煮込み料理には牛肉が使われるのが一般的です。また、「昼の残り肉に玉ねぎを刻み込んだからしあえ」は、今でもスーぺル・メルカド(スーパー・マーケット)へ行くと、調理前の素材で売っていますが、これを買ってきて焼いて食べますと、ビノ・ティント(赤ワイン)と実によく合います。「日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて」のくだりを見ると、ここでは、鳩のごちそうも食べていたことがわかります。

 エル・トボソ村でドゥルシネーアの家を見学していた時、裏庭にたくさんの鳩の家があったことを思い出します。スペインの人たちは、雉、鶉、鳩といった、日本ではなじみの無い野鳥料理が大好きで、アランフェスの私の家の近くにも「エル・ファイサン」と言う、雉料理専門店があり、王侯貴族が好んで食べる料理として有名です。
 
それにしましても、収入の四分の三が食費とは、エンゲル係数の高い食事ですね。

           
 プエルト・ラピセの旅籠「ベンタ・デル・キホーテ(ドン・キホーテ亭)」。ドン・キーテが騎士の称号を受けた旅籠は、現在はレストランテ兼土産物店となっており、 レストランテではラ・マンチャ名物のコシード(煮込み料理)や特産の熟成した羊の チーズ「ケソ・マンチェーゴ」を食べさせてくれます(写真上・下)。

            

 ラ・マンチャのケソ・マンチェーゴ(羊の熟成チーズ)
 羊の熟成チーズ「ケソ・マンチェーゴ」は、そのままビノ(赤ワイン)のつまみとして食べても美味しいのですが、メルメラーダ・デ・ビノ(赤ワインのジャム)を添えると一層美味しくいただけます。ラ・マンチャ地方では、ケソ・マンチェーゴと共に、チョリソ、ハモン・イベリコも上等なものがありますから、プエルト・ラピセでも食べてみて下さい。
 メルメラーダ・デ・ビノ(赤ワインのジャム)
 
日本ではあまりなじみのないジャムですが、メルメラーダ・デ・ビノ(赤ワインのジャム)は、スペインのラ・マンチャ地方では、ケソ・マンチェーゴに添えて良く出されます。メルメラーダ・デ・ビノの造り方は実に簡単で、赤ワイン1リットルに砂糖大さじ5を加え、中火で15〜20分煮詰め、ワインの量が三分の一くらいになったら出来上がりです。ケソ・マンチェーゴを薄くスライスして、メルメラーダ・デ・ビノをつけて、赤ワインでいただきます。
 メヌー・デル・ディア
 マドリッドの街や、ラ・マンチャの街々のレストランテでは、その入り口に大きく「メヌー・デル・ディア(本日のサービス定食)」の看板を見かけます。日本の「日替わり定食」をイメージしていただければ良いと思います。
 スペインのレストランテで食事ということになると、メニューの選択に苦労すると思います。何しろ、べベール、プリメロ・プラト、セグンド・プラト、ポストレの順番で料理を注文するのですが、これがなかなか一苦労です。そこで登場するのがメヌー・デル・ディア(日替わり定食)です。これらが全部含まれて、10ユーロ程度です。それに、運が良ければ、レスト・ランテによってはコシード・マドリレーニョ等、ガルバンソス(ヒヨコ豆)とチョリソ、ハモン・セラーノで煮込んだコシ―ドを出してくれるレストランテがあったりしますから、楽しみもあります。

 
セルバンテスの生涯
 − アルガマシージャ・デ・アルバの地下牢 −
 
アルカサール・デ・サン・ファンの街からラ・マンチャの乾いた大地を南へ約35K 、車で30分程走ると、アルガマシージャ・デ・アルバ村へ到着します。ドン・キホーテ物語の冒頭部分で、「それほど昔のことではない。その名は思い出したくもないが、スペインはラ・マンチャのさる村に・・」と書かれている村が、ここ、アルガマシージャ・デ・アルバ村なのです。
 数奇な運命をたどったセルバンテスは、生涯に何度か投獄されていますが、無実の罪で、ここ、アルガマシージャ・デ・アルバ村の「Casa de Medrano(メドラノの家)」の地下牢で屈辱の日々を過し、そのことにより、「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の構想を練り上げ、あの大作が生まれたのですが、今でも村の人々はセルバンテスを大層誇りにしています。
 
私が、アルカサール・デ・サン・ファンの街からアルマガシージャ・デ・アルバの村へ到着した時間は午後2時過ぎ、スペインではちょうどシェスタの時間でした。村の役所や商店等は皆閉まっていたのですが、運よくCasa de Medrano近くの公園でお喋りをしていたセニョーラ二人に、「メドラノの家の地下牢を見たいのですが」と、いろいろ尋ねていたら、どこからともなくもう一人のセニョーラが鍵を持って現れ「Casa de Medranoは、4時半になると開くからね」と、教えてくれました。
 さて、シェスタ明けの午後4時半までの2時間半をどう過すか、ここが私たちとスペインの人たちとは少し違うところでありまして、スペイン人はあまり時間にせかせかしません。思案に暮れていると、メドラノの家のすぐ近く、ドルシネーア姫の像が立つ公園の向かいにバルを見つけ、よく冷えたラ・マンチャのビノ・ブランコを飲みながら一休みすることが出来ました。

                
 Casa de Medrano
(メドラノの家)2階の図書室からのArgamasilla de Alba村の眺め。人口6、500人の小さな寒村で、小麦とオリーブ以外は育たない乾燥した厳しい気候、夏は照りつけるラ・マンチャの太陽で気温は40〜45度近くまで上昇し、冬は大地も凍て付くような寒さとなります。

                     
 
               Casa de Medrano(メドラノの家・写真左)と、セルバンテスが投
           獄されていた地下
の「メドラノの洞窟・写真右」。メドラノの洞
           窟へは、
Casa de Medrano入り口でチケットを購入し、階段を地下
           へ下ります。


            
 
      セルバンテスが投獄されていた「メドラノの洞窟」の一番奥の写真です。私がArgamasilla
           de Alba村を訪れたのは、ラ・マンチャの初夏。日中は気温もぐんと上がって40度を超え
       る日だったのですが、地下の洞窟は意外に涼しく、思ったよりも過し易いのかも知れません。

 
英雄の誕生

 
―本 文―
 「それほど昔のことではない。その名は思い出せない(思い出したくない)が、スペインはラ・マンチャ地方のある村に、槍や古びた盾を部屋に飾り、やせ馬と足のはやい猟犬をそろえた、型どおりの紳士が住んでいた。家には四十歳を過ぎた家政婦と、まだ二十歳まえの姪、それに、畑仕事や使い走りをするだけでなく、やせ馬に鞍をつければ、庭木の刈り込みもする若者がいた。そして、われらの主人公となる紳士は、やがて五十歳になろうとしていた。骨組みはがっしりとしていたものの、やせて、頬のこけていた彼は、大変な早起きで、狩が大好きであった。

 
ところで、知っておいてもらいたいのは、この紳士が、ひまさえあれば(もっとも、一年中たいていひまだったが)、われを忘れて、むさぼるように騎士道物語を読みふけったあげく、ついには狩に出かけることはおろか、家や田畑を管理することもすっかり忘れてしまった、ということである。
 
さて、思慮分別をすっかり無くした紳士は、これまで世の狂人のだれ一人として思いつきもしなかったような、何とも奇妙な考えにおちいることになった。つまり、みずから鎧かぶとに身を固め、馬にまたがって遍歴の騎士となり、世界中を歩き回りながら、読み覚えた遍歴の騎士のあらゆる冒険を実際に行うことによって、世の中の不正を取り除き、いかなる危険にも身をさらしてそれを克服し、かくして、とこしえに語り継がれる手柄を立てることこそ、自分の名誉をいやますためにも、国に尽くすためにも、きわめて望ましいと同時に、必要なことであると考えたのである。」

 ―考 察―
 故郷を遠く離れて生活している者は、誰しも生まれ育った故郷がなつかしく、齢を重ねるごとに、物心がついた頃に通った学校や友、日が暮れるのも忘れて遊んだ山や川のことを思い、たまらないノスタルジアを感ずるものだと思うのですが、セルバンテスは「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の書き出しの冒頭部分で「それほど昔のことではない。その名は思い出せない(思い出したくもない)が、スペインはラ・マンチャ地方のある村に・・中略」「そこである夜、ドン・キホーテは家政婦や姪に別れを告げることも無く、またサンチョのほうも、妻や子に何も言わずに、二人はこっそりと村を抜け出した。」と、述べています。
 
この書き出し部分でもわかるように、セルバンテスの脳裏には現実の生活に対するさまざまな思いが去来し、錯綜していたのではないでしょうか。
 レパントの海戦での戦功に対する恩賞の不公平、生涯に何度も経験する投獄生活での屈折した日々、故郷に帰っても定職さえもなく、海軍の食糧徴発人として、また収税吏として夏は酷暑の、冬は凍てつくような寒さのアンダルシアの荒野を歩き回った不毛の日々に対する慟哭の思いが、冒頭部分の書き出しとなっているものと考えられます。


 セルバンテスが「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」前編を出版したのは、1605年、セルバンテスが58歳の時です。10年の時を経て1615年、68歳の時に後編を出版しているのですが、一般的にみて、現在のサラリーマンの定年退職年齢前後に、前編の大作をまとめ上げ、さらに1615年、作者自身が亡くなる一年前に物語全体をまとめ上げると言う、セルバンテスの一連の創作活動を振り返る時、やはり作者自身の偉大性とともに、その特殊性を考えてしまいます。
 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と言う名作。悠久の歴史の流れの中でも忘れ去られること無く、世界の歴史とともに生き続けている作品は、現代流に言えば、極めて「知的付加価値」の高い作品であります。これだけ「知的付加価値」の高い作品を書き上げるためには、並々ならぬポジティブなエネルギーが必要であったと考えられるのですが、それを人生後半の58歳の時に前編を、そして68歳の時に後編を完結させると言う、常人では為し得ないことを、気負うことなく完結させたセルバンテスの人間的・精神的な強さを改めて感じ入るのであります。

                        
 
             ラ・マンチャの荒野を、愛馬ロシナンテ号にまたがり旅する
               遍歴の騎士ドン・キホーテと従士のサンチョ・パンサ。ギュ
               スターヴ・ドレの挿画より −1863年−


 参考文献 ドン・キホーテ セルバンテス作・牛島信明編訳
       ワールド・ガイド ヨーロッパ 7スペインJTB
 
     スペイン・ポルトガルを知る辞典 平凡社
 
     スペイン・ハンドブック     三省堂
       Real Sitio de ARANJUEZ
       Guide Real Sitio de ARANJUEZ
 
       YAHOOJAPAN スペイン