スペイン巡礼の道

 フェリペU世大学・翻訳学部
 元PROFESOR 加 瀬   忠

 
フランス・ブルゴーニュ地方ベズレーの街から、険しいピレネー山脈を越え、キリスト12使徒の一人聖ヤコブの眠るスペイン西端の街、サンチアゴ・デ・コンポステーラヘと続く「スペイン巡礼の道」は厳しく、苦しい「巡礼の道」です。
 ピレネー山脈に近いスペイン・バスク地方のハビエル村から、「スペイン巡礼の道」へと歩を進めた時に、先ず思ったことは、「人はこの厳しい道をなぜ辿るのか」と言う素朴な疑問でした。街を外れた道中には病院や救護施設等は何も無い、あるのはただ気が遠くなるほどの荒野と一本の道だけなのです。

 
今まで勤めていた職場や仲間から離れ、この道を歩もうと決意するまでには、相当にポジティブなエネルギーが必要だったと思います。「スペイン巡礼の道」を辿る前に、私は巡礼者の人間観察にも別な意味で興味と関心を覚えました。いっときの思いつきでは、とても貫徹出来そうもないことに挑戦する動機は一体何なのだろうか。

 
比叡山・延暦寺の1、000日「回峰行」

 
「スペイン巡礼の道」を、ひたすら聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指して歩いている人たちを見て、私はその姿を、比叡山・延暦寺の1、000日回峰行の行者に重ねていました。平安時代から天台宗の修行僧が行っている行の一つで、一日に比叡山を一周し、これを1、000日間続けて終るあの修行です。この間には死を賭した不眠・不休・不臥のお堂入りがあり、常人ではとても為し得ない荒行です。

 人は誰でも多かれ、少なかれ日常生活に多少の不満はあると思うのです。「自分は、所属する組織からはみ出しているのではないか」「愛する人と別れ、その心の痛みに耐えかねている」「自分を変えたい、ひょっとしたら変えることが出来るかも知れない」と、思っている人々。

 純粋な宗教心から、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指し巡礼することとは別に、いろいろな意味で心の痛手に耐えかねて歩いている人たち。人は誰でも毎日が忙しく、ただ無為に時だけが過ぎ去ってゆく、この現実の社会から抜け出したいと言う願望がある。カミーノ・デ・サンチアゴ(巡礼の道)は、そのような人たちも歩んでいるかも知れない。

 フランシスコ・ザビエルとハビエル城

 
                   サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと800キロ−

 
「ハビエル」、そうです。日本へ最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルをスペインでは「ハビエル」といいます。イエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルは、キリスト教を伝えるため1、549年に来日しました。

         

 
        フランシスコ・ザビエルが生まれ育った、ナバラ王国の貴族の城「ハビエル城」

 ハビエル村を訪れ、中世の時代からそのたたずまいが少しも変わっていないハビエル城を見ながら「フランシスコ・ザビエルは、なぜ遠い日本へ目を向けたのだろうか」という疑問がいつまでも残りました。16世紀中ごろのヨーロッパは、一体どのような時代だったのでしょうか。

 
ルター、ロヨラの宗教改革

 
ルネサンスの時代に生きた人々は、人としての真の信仰と社会のあり方を問い、カトリック教会がローマ大聖堂の建設資金を集めるために「免罪符」を販売していることを見とがめ、宗教改革が始まりました。
 1、517年、ドイツのマルティン・ルターは「人は信仰のみによって救われる」と、95か条からなる抗議書を公表し、教皇の破門を受けてもなお、「救いは信仰のみによる」と、説いて改革を進めました。また、この頃、スペインでもローマ・カトリック教会の発展をはかるため、イグナティウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルらが中心となって「清貧・禁欲・服従」を誓いの柱とした「イエズス会(耶蘇会)」が結成されました。
 イエズス会では、新しい布教の地をヨーロッパ以外の地にも求め、当時すでに喜望峰を回ってインド洋からインドに達する「インド航路」が、バスコ・ダ・ガマによって発見されていたこともあり、未知の東洋への布教をめざしてフランシスコ・ザビエルを東洋のゴヤ、マラッカに派遣しました。

       
            
 
           サン・キリスト塔から、ザビエルが生活をした「聖人の間」へ通じる
 
          階段。ザビエルが日常生活の中で何回も通ったであろう日々が回想さ
                                      れます(写真左)。1549年、日本に渡来した最初のイエズス会士。
            スペインのナバラ王国の貴族。鹿児島に上陸の後、平戸、山口など日
            本各地で伝道。1551年離日、広東で病没した(写真右)。




フランシスコ・ザビエルの見た、戦国時代の日本人

 この国の人たちは、大層名誉を重んずる人たちで、人に侮辱されたり、軽蔑されたりすることを大変嫌います。武士以外の人たちは武士を尊敬し、武士は領主に臣従しています。これは、領主から罰を受けるというよりも、臣従しなければ「自らの名誉を失う」と考えているからです。

 
 日本人の大部分は読み書きが出来ますから、祈りや教理を短時間に学ぶのに役立ちます。この国では盗人が少なく、もし盗人を見つけた時は非常に厳しく罰します。盗みの悪習を大変憎んでいます。彼らは善良な人々で、また知識欲はきわめて旺盛です。

     「聖フランシスコ・ザビエル全書簡(新学社・歴史資料集)より一部抜粋



  プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)
 
                  −サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと730キロ−

 フランス・ブルゴーニュ地方ベズレ―の街を出発し、険しいピレネー山脈を越えてハカの街から来たフランス巡礼の道と、北寄りのロンセスバジェスから来たフランス巡礼の道が合流する街「プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)」。
 中世ヨーロッパの巡礼者たちは、カミーノ・デ・サンチアゴ(巡礼の道)を聖地目ざして進む時、橋がかかってなかった時代はこのアルガ川を大きく迂回しなければならなかったのです。悪路を歩く巡礼者にとって、それは気が遠くなるような道程でした。

 プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)、何と美しい響きを持った橋でしょう。この石造りの美しい橋は、11世紀の中頃にこの地を統治していたナバーラ王国の王妃が巡礼者のために掛けた橋です。

                      
 
          「王妃の橋」、橋の名前がそのまま町の名前になったロマン
           の薫りが漂う街。街の
入り口には、Desde aqui todos los caminos
                  a Santiago se hacen uno solo
(ここからサンチアゴへの全ての道
           は、ただ一本になる)と書かれています。


 巡礼者の宿・アルベルゲ

 カミーノ・デ・サンチアゴ(スペイン巡礼の道)を辿りながら、いつも同じことを考えてしまいます。「人は、なぜこの道を歩くのだろうか」「身の回りの大きな荷物を一切背負って、気が遠くなるようなこの道をなぜ」。最後に頼れるのは自分だけ。この厳しい選択をするにあたっては、かなりの決断力が必要だったはずです。
 このあたりの事情を、私の学部の学生に聞いてみました。すでに3回も巡礼の道を踏破している53歳になる学生の一人イサベルは「苦しみに耐え、ストイックに自分を痛めつけるような旅だけがカミーノ・デ・サンチアゴの旅ではないのよ。気持ちをリラックスさせ、気分を転換させるために一ヶ月のバカシオーネス(長期休暇)をカミーノ・デ・サンチアゴへの旅にあてたの」と、スポーツ感覚で話してくれました。
 長い上着を羽織り、杖をついて歩いた昔の巡礼者と、アウト・ドアー用のリュックを背負い、マラソン・シューズで巡礼の道を歩く現代の巡礼者とでは、その目的意識もかなり異なっているのかも知れません。

 では、巡礼者は一体どこの宿に泊まっているのだろうか。
 サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダの街で、私の宿泊したホテルの近くで偶然、巡礼者用の宿「アルベルゲ」を見つけました。

                        
 
             ドミンゴ神父の名前が、そのまま街の名前になっているサント・
              ドミンゴ
・デ・カルサダの街で見かけた巡礼者の宿「アルベルゲ」

                      サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと645キロ−



                      
 11世紀、ドミンゴ神父は巡礼者のために救護院を造った。今は、国営のパラドールとなっている(写真左)。ドミンゴ
 神父は、巡礼者が歩きやすいように、石畳の道を造ったと言う。今もドミンゴの街は至るところ石畳の道です。



  徒歩、または自転車で巡礼の道を旅している人なら、アルベルゲに宿泊する場合、宿泊料は原則として無料ですが、寄付金として5ユーロ(650円)〜10ユーロ(1300円)を寄付するのが古くからの慣習のようです。ここでは、自炊用のキッチンやレンジがついているアルベルゲもありますが、休む部屋は勿論一人一部屋と言うわけにはいきません。修学旅行のように大勢で簡易ベッドで休みます。巡礼者たちは、ここで、それぞれが持っている旅の情報を交換し、サンティアゴ・デ・コンポステーラまでの長く、厳しい巡礼の道に思いを致すといいます。

 巡礼の道の中継地「レオン」


                   −サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと340キロ−

 
スペイン「銀の道」とサラマンカの北180キロでジョイントするレオンの街。この街は古くはレオン王国の首都であり、スペイン巡礼の道への中継地として発展した街です。
 レオンの街の中心は、スペインの三大聖堂の一つに数えられる「カテドラル」です。13世紀後半に建てられたゴシック建築様式の傑作で、その調和のとれた神聖なまでの美しさは、見るものを圧します。
 レオンのカテドラルは、外観の美しさと共に、120枚のステンド・グラスを使った内部の美しさでも良く知られています。

 レコンキスタ(国土回復運動)をリードした街

  レオン王国は、かつてイベリア半島全体がイスラム勢力の支配下にあった中世の時代でも、キリスト教勢力の中心地として栄え、レコンキスタ(キリスト教徒がイベリア半島からイスラム勢力を駆逐するために行った解放運動)をリードした、キリスト教スペインの最大都市でもありました。

                        
 
             レオンのカテドラル。13世紀後半に建てられたゴシック様式の
              傑作で、その壮麗なたたずまいは「ゴシックの理想像」と呼ばれ
              ています。

 サン・マルコス橋を渡ってすぐ、サン・マルコス広場に面して建つ大きな建物が旧サン・マルコス修道院です。レオンのカテドラルがゴシック様式の傑作なら、旧サン・マルコス修道院はルネサンス様式の傑作です。現在は、一部改装され、国営のパラドールとなっているので、ここで宿泊することが出来ます。


                      
                                 
ベルネスガ川に架かるサン・マルコス橋。中世以来、どれだけの巡礼
          者がこの橋を
渡ったのだろうか(写真左)。旧サン・マルコス修道院。
          今は、その一部
が改装され、五つ星の国営パラド―ルとな っています。

 レオンの街は、チョリソと生ハムが美味しい
 
レオンでは、サン・マルコスのパラドール近くに、美味しいチョリソとハモン・イベリコを食べさせてくれるバルがあると話に聞いていたので訪ねてみました。
 バルヘ入ると、さっそく良く冷えたセルベッサを飲みながらチョリソとハモン・イベリコを注文。なるほど、どんぐりで育てた黒豚のハモン・イベリコ・ベジョータの味は絶品です。毎日かなりの距離を踏んでいる身にとっては、心地よい一時です。エンサラダ・デ・ミスタ(野菜サラダ)とコルデロ・アサド(子羊の炭火焼き)それにパン、ビノ・ティント(赤ワイン)の夕食で疲れも吹き飛びました。


 
銀の道と交差するアストルガの街

                               −サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと260キロ−

 
国道N−120号線をレオンの街から西へまっすぐ約40K、平坦なカスティージャ・イ・レオンの風景も、アストルガの街が近づくに従って変わってきます。見渡す限り平坦でまっすぐに伸びていた道も、このあたりから峠の道に差し掛かかります。
 アストルガの街は、城壁に囲まれた小高い丘の上に広がっていました。この街は、古代ローマ時代から銀の道と交差する通商の要所として、また軍事・交通上の要衝として栄えた街です。
 
巡礼道に従って「プエルタ・デル・ソル(太陽の門)」をくぐると、カテドラルが見えてきました。「ほら、あの建物がガウディーの建てた司教館だよ。その向かいがホテル・ガウディー、その隣がバル・ガウディーさ」広場で道を尋ねた老人が、親切にガウディーゆかりの建物を教えてくれました。

 私がスペインでガウディーの建築物と最初に出会ったのは今から10年前、バルセロナの「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」でした。バルセロナの地下鉄駅から地上に出てサグラダ・ファミリアの正面ファサードを仰ぎ見た時の感動は、今でも鮮烈に脳裏に焼きついています。その後、マドリッド日本人会の文化部で講演会が企画された折に、縁あって講師としてお迎えしたのが、サグラダ・ファミリアでマリア様の像を彫り続けておられる日本人の彫刻家、外尾悦郎氏でした。
 
講演会当日、早めにおいでいただいた外尾悦郎氏と、マドリッド日本人学校・校長室でしばらくお話をしたのですが、先ず挨拶代わりに見せていただいた左手中指と人差し指、薬指との

                    
 
          教会と城と宮殿が一体となったガウディーの建てた「Palacio Episcopal
          (司教館)」
(左)とカテドラル(右)。

間に出来た、盛り上がった大きな硬い「ノミだこ」を拝見した時の驚きと、「こんな大きな仕事は、やらされていたのでは出来ません。仕事が好きだから出来るのです。」と、静かに語っておられた外尾氏の姿が今でも忘れられません。

 
アストルガの街は、今では古代ローマ時代の歴史と伝統を誇る「銀の道の街」、というよりも、むしろガウディーゆかりの街としての知名度の方が高い街です。

 
                    
 
          バロック建築のファサードがバラ色に輝くアストルガのカテドラル。

 
赤い街、カストリージョ・デ・ロス・ポルアサレス

  アストルガの街からは、LE142号線を道なりに西へ進みます。このあたりの植生は一面荒地で、ところどころにほんの少し、申し訳程度の冬小麦畑が見えるだけで、他には何も見ることが出来ません。産業らしきもの何一つ見当らないような深い山懐に抱かれた家々では、何を糧に生計を立てているのだろうか。気が遠くなるような慟哭の思いにさいなまれます。

 カストリージョ・デ・ロス・ポルアサレスの村へ到着した時間は、ちょうどシェスタの時間だったのですが、それにしても通りに誰も人の姿を見かけません(写真・下)。それでも、さらに村の奥へと進むと、一軒のみやげ物店が、ひっそりと営業していました。手づくりのブローチやネックレス、小物類で時折訪れる観光客相手に商いをし、生計を立てているのだと言います。村の外れからは、サンチアゴへの道がどこまでも遠く霞んで見えるのですが、そこを歩む巡礼者の後姿は、偉大な自然の前ではさらに小さく、頼りなく見えてしまいます。

             
 
        赤い村、カストリージョ・デ・ロス・ポルアサレスは、村全体が歴史保存地区
         に指定され、家を修理するにも、新築するにも壁や扉の色が決められています。

 誰もいない「廃村」のようなエル・アセボ村


  険しい山道のLE142号線を道なりにさらに西へ進むとエル・アセボの村が見えてきました。数メートル先が見えないような霧深い山中で、人や家の明かりに出合うと、ホッとします。
 
カストリージョ・デ・ロス・ポルアサレスの村でもそうでしたが、エル・アセボ村へ辿り着いた時は、私たちはゴースト・タウンへ迷い込んでしまったのではないか、という錯覚を覚えました。そのくらい、このあたりでは人が誰もいない「廃村」や「廃屋」が目立ちます。「村を出てゆく人はいても、巡礼者以外は入ってくる者はいないね」。エル・アセボの村でただ一軒だけ開いていたバルで、老人が寂しそうに話していました。

                        
 
             人が誰もいない「廃村」のようなエル・アセボの村。手前右
              の建物は、村で
ただ一軒だけ開いていたバル。人の温かさに触
              れ、暖かな室内で飲んだカフェ・コルタ―ドは格別でした。
 カフェ・コルタ―ド
 
スペインのコーヒーは、種類も量も豊富で、どこで飲んでも自分流のコーヒーをアレンジすることが出来ます。カフェ・コルタ―ドは、小さめのコーヒー・カップにカフェ・ソロを注ぎ少量のミルクを加えて飲みます。砂糖は、好みにもよりますが
、スペイン人は甘いコーヒーが好きなようです。カフェ・コン・レチェという、大きめのカップに、コーヒーとミルクを同量注いで飲むのも好きなようです。この時、ミルクはレチェ・フリア(冷たいミルク)かレチェ・カリエンテ(温めたミルク)を選択して飲みます。

             
 
 
地図にものっていないような険しい「巡礼の道」でも、こちらが「あれっ、道に迷ったかな」と、思う頃、必ず写真左・
 右のような標識が出てきます。貝のマークは巡礼のシンボルです。


 
プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)
 
                −サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと180キロ−

 
「プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)」があるビジャフランカ・デル・ビエルソの街のサンチアゴ教会。聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラまでは、まだ標高1300メートルのセブレイロ峠を越える180キロの難所が待ち受けています。ビジャフランカ・デル・ビエルソまで620キロにも及ぶ深山を踏破しながらも病に倒れ、巡礼が継続出来なくなってしまった無念の巡礼者の為に、法王は、このビジャフランカの「プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)」をくぐれば、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラ到達と同じような「免罪」を受けることが出来るとしたのだといいます。無念の巡礼者たちは、この街のサンチアゴ教会へ到達出来れば、神の許しを受けることが出来たのです。

            
 
        プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)。ビジャフランカの街のサンチアゴ
         教会の「許しの門」をくぐれば、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラへ到
 
        達出来なくとも、巡礼者は神の許しを受けることが出来ます。

 
スペイン巡礼の道で出会った、神に近い人へスス・ハトさん。

 
スペイン巡礼の道を辿っていて、神のような人に出会いました。
 ビジャフランカの街でアルベルゲ(巡礼者の宿)を経営するへスス・ハトさん。巡礼者の為に宿と食事を無料で提供し、病人の世話もしているのだという。私たちが訪れた時にも、昼食のためのパン作りで多忙な中を、丁重にアルベルゲ内を案内してくれました。通常巡礼者がアルベルゲ(巡礼者の宿)で宿泊と食事のお世話になった時は、その気持として5〜10ユーロを寄進するのが慣例なのだそうですが、へスス・ハトさんはそれさえも受け取らずに、ひたすら多くの巡礼者の為に尽くしているのだといいます。人は俗世間の諸々な欲望から離れ、ただひたすら他者の為に尽くし続ける事が出来るのだろうか。どうすれば、人は天台宗の高僧・大阿闍梨様のように「公」の為にだけ尽くす高邁な精神を持ち続けることが出来るのだろうか。

 
へスス・ハトさんの人間性に共感した巡礼者も多く、まだ建設途上のアルベルゲ建設の為に自らの労力を提供し、自分の気持を伝えるのだと聞きましたが、私たちが訪れた時にも、ドイツ、フランスからの若者が、アルベルゲ建設のために一生懸命、ただひたすら働いていました。

            
 
      ビジャフランカの街のサンチアゴ教会(左)と、へスス・ハトさんのアルベルゲ(右)。
 
      アルベルゲは「Hospital de peregrinos AVE FENIX」と名付けられていた。ギリシャ神話に登
        場するフェニックスは、500年生きて自分の死期が迫ると、自らの巣と体を燃やして灰
       となり、そこから再生する「フェニックス(不死鳥)」といわれます。

             
 
 
          サンチアゴ教会の裏手にある墓地。聖地サンチアゴ・デ・コンポス
            テーラまで到達出来ずに病に倒れ、この墓地に埋葬されている巡礼
            者も多数いる、と聞きました(写真・左)。限りなく神に近い存在
            のへスス・ハトさん(写真・右)。

 
最後の難所、標高1300メートルの峠越え
 
                −サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと150キロ−

 
ビジャフランカの街からは、いったんN−6号線に乗り、約30K道なりに北西方向に歩き、LU634号線をセブレイロ峠に向かいます。峠の麓で、長いマントを羽織り、杖をついた昔の「巡礼者」の銅像を見かけましたが、「巡礼の道」最後の難関、セブレイロ峠に挑む巡礼者たちが、この像にどれだけ励まされていることでしょう。私たちも、この像を仰ぎ見て、勇気とエネルギーをもらいました。

              

 
           セブレイロ峠の麓に巡礼者を励ますように立てられていた、長
             いマントを羽
織り杖をついた昔のスタイルの「巡礼者の像」。

 巡礼の道最後の難関「
セブレイロ峠」

 
一面豊かな緑の山道、ふと立ち止まると聞こえて来る小川のせせらぎ、ピレネー山脈越えから辿ってきた今までの巡礼の道とは異なり、ここからの道は、どこかなつかしい故郷の山々に似た風景に心安らぐ思いがしますが、現実は登っても登っても、どこまでも続く葛折の坂道。
 標高1300メートルの峠道は、寒暖の差が激しい内陸性気候のカスティージャ・イ・レオンから雨量の多い穏やかな西岸海洋性気候で知られるガリシア地方への入り口のはずなのですが、一年の大半が吹雪と風雨に見舞われているという厳しい気象条件の峠です。数メートル先も見えないような深い霧と氷雨。このまま峠道から落ちてしまうのではないかと思えるような不安と幻覚さえ覚える峠道です。

 やっと峠の頂きに着いたかな、と思っても、またその先に長い道のりが続きます。霧が少し晴れ、薄日がさして「やれやれ」と、ホッとする間もなく、また次の峠道を登ると深い霧に包まれてしまうのです。これほど厳しい条件の峠道を、巡礼者は一体どのような気持で歩き続けているのだろうか。私の担当する翻訳学部の学生たちに、峠道を孤独に耐えて登る心情を聞いてみました。学生たちは、「巡礼の道は、平坦で平穏な道よりも、少し厳しい道のほうが気持はハッピーなの。そのほうが少しでも神に近づくことが出来るような気がするの」「食事だって、セブレイロ峠には食べるところがどこにもないし、ドライ・フルーツをかじりながら歩き続けるのよ。ストイックな峠道の旅だからこそ、神と一体になれるの」といっていたことを思い出します。そうか、厳しい道の方がハッピーで少しでも神に近づけるのか。


 峠の頂上近く、進行方向左手山奥に集落が見えてきました。粗朶葺きの大きな屋根を地面に届いてしまうくらいに低くして、石の壁を積み上げただけの家々が寄り添うように集落を作っていました。平家の落人部落を想起させる、人里離れたこんな峠の奥深くに、どうして人が住み着いたのだろうか。集落の様子を良くみると、どこかで見たようなつくりです。これはたしかケルト人遺跡で見かけた家屋のつくりです。集落の中へ入ってみると、ロマネスク様式の教会も救護所もあり、救護所は人を泊める宿屋として営業していました。

                

 
             粗朶葺きの大きな屋根全体を低くし、石を積み上げただけの
               壁で吹雪と風雨を防ぐように工夫された住居。ケルト人遺跡
               で見かけた家屋のつくりです。


 峠を下ってサモスからサリアの街へ、あと一息だ!
 
                       
                   
−サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと95キロ−


 セブレイロの峠道をくねくねと下って開けたサモスの街の入り口に、サモス修道院がありました。清貧・貞潔・従順を誓い専ら修行と労働に従事することを教義としたべネディクトゥスの修道院です。サモスの街では、LU634号線沿いのガード・レールがすべて巡礼のシンボルであるホタテ貝の文様になっており、ここが巡礼の道であることを実感させられます。
 サモスの街はとても小さな街で、修道院も目立ちませんが、この修道院では、17世紀から18世紀にかけてガリシアの歴史に大きな足跡を残したべ二―ト・フェイホー神父が活躍し、今でも、地域住民の信仰の対象となっています。

                

 
             LU634号線沿いのサモスの街。ガ−ド・レールはすべて
               巡礼のシンボ
ルであるホタテ貝の文様だ。遠くに見えるのは、
               サモス修道院。


 サンチアゴ・デ・コンポステーラ
 
                                   ― 聖地にたどり着く ―

 
サリアの街からはC535号線を少し歩き、N547号線に入ってからは、まっすぐ西へ約70キロ進みます。このあたりは、巡礼の道とはいえ道路も良く整備されていますので、3〜4時間も歩かないうちに、行く手の前方に目指すサンチアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂が見えてきました。
 随分長い道のりでしたが、思えば5年前、ふとした事がきっかけでフランス・ピレネー山脈の麓にあるパウの街に投宿し、その街が古くから「カミーノ・デ・フランセ(フランス巡礼の道)」で知られた街であることを知りました。そして、これも全くの偶然なのですが、ピレネー山脈を越えてスペインのハカの街からサラゴサの街へと歩を進めたその道が、「カミーノ・デ・サンチアゴ(スペイン巡礼の道)」の一つのルートであることを知ったのです。

 
フランスからスペインへと続く巡礼の道のスタートを切ってしまったのですから、これはもう、サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指すしかないだろうと、極めて短絡的な動機で「サンチアゴ巡礼の道」を辿り始めたのです。ところが、聖地へ向かって歩を進める程に「人はなぜこの厳しい道を歩むのだろうか」という素朴な疑問と、自分自身が日常的な自分から、非日常的な自分に次第に変わってゆく「高邁な精神性と宗教性」が呼応した内なる自分に気づくようになっていたのです。カミーノ・デ・サンチアゴは実に不思議な道です。
 サンチアゴ・デ・コンポステーラのエスパ―ニャ広場から大聖堂正面入り口のファサード・栄光の門をくぐり中へ入りました。栄光の門の中央支柱では、サンチアゴが巡礼者に祝福をおくっていました。像の下の柱に手をあて(写真)、巡礼が無事終了したことを告げました。古来、どれだけの人たちを迎えたのでしょう。支柱は、手形通りに磨り減っているのです。さらに大聖
堂を進んだ中央の祭壇には、聖者サンチアゴの像が飾られていました。中央祭壇に登って、後光の差す聖者サンチアゴの後姿に触れることが出来ました。

                 

 
              栄光の門の中央支柱に手をあて、巡礼の道を無事踏破
               したことを告げました。

        

 
       エスパ―ニャ広場からのサンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂のファサード


 
 人は、人智を超えた偉大なものには、従った方が幸せになれる。   加瀬 忠。

 
           サンチアゴ巡礼の道800キロを踏破して。平成15年11月23日(日)