マドリッド通信ー82

フェリペU世大学・翻訳学部
PROFESOR    加 瀬  忠

 
オーラ ケ・タール?
 スペインでは厳しい暑さの毎日ですが、お元気ですか。
 40度を超すラ・マンチャの乾燥した大地から、オランダのアムステルダムで乗り継ぎ、17時間のフライトで梅雨の季節の日本へ到着すると「世界は狭くなったなー」と、実感致します。今年度の後期授業も無事終了し、日本へ一時帰国しました。
 
成田空港駅から電車で熊谷へ向かう車中で、帰宅途中のサラリーマンや高校生の動きを見ながら、「何と忙しい人たちなのだろう」と、驚いたり、祖国日本の活力を感じたりしながら目を白黒させております。

 
日本はまだ安全な国
 
日本へ一時帰国しますといつも感ずるのですが、成田空港駅から京成のスカイライナーへ乗って上野へ向かいますでしょう、そうすると大きなスーツ・ケースは「荷物置き場」へ置いて、座席は荷物から離れて遠くなんですね。あんなこと、欧州では考えられません。荷物と人が離れても、荷物がなくならない国がまだあるのですから、驚きです。それに、電車が発車すると、間もなくほとんどの人が眠りはじめまして・・今度は棚の上のショルダー等も気になるのですが、多数の人がうとうとと居眠りをしている車内を見て、いつものことながら、日本の治安の良さに感じ入っております。
 平成6年に文部省の派遣でマドリッド日本人学校へ赴任して以来、スペイン在住が10年目になりました。この間、欧州での毎日の生活は、常に「スリや強盗からわが身を守るためにはどうするか」を考えることが、危機管理の基本である生活を続けているだけに、一層その感じを強く致します。
                

                       
緑深いアランフェスのインファンタス通り。

 
えっ・・43度!
 
そうです、摂氏43度です。スペインのラ・マンチャ地方の夏は、もともと暑さが厳しく、6月中旬から8月下旬頃までの夏は、例年40度前後の酷暑が続くのですが、それにしましても、今年は少し早すぎますし、暑過ぎます。私の手元のメモによりますと、大学の後期試験の最中である6月6日(金)に43度を記録し、ずっとこの暑さが続いています。上の写真は、勤務終了後の午後6時過ぎ、いつものようにジョッキングに出ようとして、どうも暑いなー・・と、街の温度計を見たら摂氏43度でしたので、我が家へカメラをとりに戻って写した写真です。この日は、午後1時からの講義の最中は、もっと気温が高かったんでしょうね。数字を見たり聞いたりすると、シェスタをしたくなってしまいますので、見ないようにしています。
 写真を見てもおわかりのように、アランフェスの街はタホ川の潤す恵みで緑が多く、プラタナスやマロニエ、西洋ポプラ等の街路樹が町全体を覆っています。ですから、マドリッドや南のコルドバ、グラナダよりもアランフェスの街は涼しいと思っていたのですが、そうでもなさそうですね。


 
ラ・マンチャの夏を乗り切るには
 
さて、体温を超える気温と、乾燥した自然条件の中で生活するにあたって、私は次の三点について特に気をつけています。1 水分の摂取を早め、早めにすること。
 
スペインでは、気温が40度を超えていてもほとんど汗をかきませんから、水を飲むのがどうしても遅れがちになります。水分の摂取が遅れると、脱水症状となり倒れてしまいます。のどが渇いてからでは遅いのです。
2 栄養に気をつけること。
 
とにかく食欲がなくなりますので、どうしても蛋白質不足になってしまいます。意識的に、肉類、卵・チーズ等の蛋白質を食べるようにしています。
 シェスタと換気。
 
スペインの午後3〜5時は、日中で一番暑い時間帯です。古くからのこの国の習慣に従って、シェスタで体を休めるのが一番です。また、午前中の涼しい時間帯に、部屋中の窓を開けて換気をし、10時過ぎには窓を全部閉じてカーテンを引く。こうすると、午後の暑い時間帯でも、部屋の中は25〜6度に保つことが出来ます。
 
スペインでは日本とは逆で「暑いから窓を閉めなさい」が生活の知恵です。

 
タホ川の恵み

 
タホ川は、イベリア半島を東西に流れる大きな川で、古くから流域一体を潤し、農業用水として利用されています。アランフェスの街も、タホ川の水を灌漑用水として用い、白いアスパラガス、いちご、レタス等の農産物を育ててきました。

             
 
                  
休日は、遊覧船やカヌーで賑わうタホ川。王宮庭園より撮影。

                             
「ドン・キホーテ物語を読む」
 
私の住むアランフェスの街は、マドリッドの南50Kに位置する人口が42,000人の小さな街です。この街には、スペイン国王フェリペU世の命で、18世紀に完成したアランフェス宮殿があり、街全体が宮殿になっています。
 スペインと言えば、セルバンテスの名作「ドン・キホーテ」でも描かれているように、国全体が赤茶けた褐色の乾いた痩せ地をイメージされる方も多いと思いますが、アランフェスの街は、流域一体が肥沃な黒土地帯となっており、アランフェスの街の郊外には畑や緑地帯が広がっているのです。

 
私自身、長い間このラ・マンチャの大地の真っ只中に住み、専攻の「日・西比較文化論」の取材でしばしば訪れるエル・トボソ村やコンスエグラ村、さらにはドン・キホーテの道をたどりながら今、研究テーマである「ドン・キホーテ物語を読む」・・をまとめています。 今回は、エル・トボソ村からプエルト・ラピセまでをまとめましたのでその一端を発表し、「マドリッド通信」に掲載させていただきます。
 
「ドン・キホーテ物語を読む」、を執筆するにあたっては、加瀬 忠個人が収集した資料を分析し、現地調査でまとめ上げたものです。ですから、必ずしも、いわゆる「学説」に裏付けられたものではない記述も多分にあることをご了承ください。
 
ドン・キホーテ物語を読む
 
スペインのラ・マンチャ地方に住む田舎紳士アロンソ・キハーノは、騎士道物語を読みすぎて頭がおかしくなり、自ら遍歴の騎士となって世の中の不正・悪を正そうと思い込み、近くに住む少々頭の弱い欲の皮が突っ張った現実的な百姓男、サンチョ・パンサを口説き落として従士とし、エル・トボソ村に住む田舎娘のドーニャ・アナを想い姫・ドゥルシネーアに仕立て上げ、果てしない世直しの旅に出て数々の奇行・愚行を繰り返します。
 
ご存知、セルバンテスの名作「機知に富んだ郷氏ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」は、主人公ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの狂気と夢が現実の世界とぶつかって生じるこっけいな冒険物語を、二人の相反する性格を浮き彫りにしながら描かれています。
 ドン・キホーテの誇大妄想の世界では、カンポ・デ・クリプターナの風車群は、長い腕を持つ巨人に、旅籠はカスティージョ(城)となってしまうのだから痛快だ。


 
「ドン・キホーテの道」を往く
 
「ドン・キホーテ物語を読む」は、アランフェスに住む著者自身が、研究活動の合間を縫って愛車ロシナンテ号にまたがり、何度も「ドン・キホーテの道(アソリン著)」をたどりながら歴史的資料を収集し、現地の古老から話を聞くことによって著者自身のドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ像を提示した新しい「ドン・キホーテ物語を読む」です。


ドン・キホーテコース(1) マドリッド〜アランフェス〜エル・トボソ〜カンポ・デ・クリプターナ〜プエルト・ラピセ〜コン
  スエグラ〜トレド〜マドリッドを2〜3日間でまわる。

                

                       
マドリッドのスペイン広場にあるロシナンテにま
                たがったドン・キホーテと太っちょサンチョ・パ
                ンサの銅像。後方は二人を見つめるセルバンテス。

 
ドン・キホーテコースの解説(1)
 
マドリッドから国道N−W(E−5)を一路アランフェス経由〜オカーニャへ。ここでN−301へ乗り換え、見渡す限り赤茶けて痩せたラ・マンチャの大地をキンタナール・デ・ラ・オルデンの街へ、ここまでマドリッドの街から車で2時間、約160K。キンタナール・デ・ラ・オルデンの街から、標識(写真)に従って右折。CM−3130号線を10Kでドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアのモデル

             
      
                  
エル・トボソ村まで9K。キンタナール・デ・ラ・オルデンの街でC
                   M
−3130号線へ(写真左)。エル・トボソ村からTO−1101
             号線を12〜3
K走ってカンポ・デ・クリプターナへ到着する(写真
             右)


となったドーニャ・アナの生家のあるエル・トボソ村へ。このあたりの植生は、年間300日以上の晴天と乾いて痩せた褐色の大地に適したオリーブ、ぶどう等と、小規模なスプリンクラーを使った冬小麦の栽培が目立ちます。
 
エル・トボソ村からTO−1101号線を西南西の方向に約12〜3K程走るとカンポ・デ・クリプターナへ到着するのですが、このあたりはラ・マンチャの大地の真っ只中、道中は行けども行けども家も集落もないような石ころだらけの平原。それでも、時折赤茶けた褐色の平原の彼方に、ポツンと忘れ去られたようにバルがあり、カフェ・コルタード・コン・イエロー(アイス・コーヒー)、セルベッサ、ビノ等の簡単な飲み物やアセイトゥーナス(オリーブ)、トルティージャ等の簡単なタパス類がおいてあるので心が安らぐ。
 
カンポ・デ・クリプターナからはN−420号線を西へ走りN−W号線の下をくぐると間もなくプエルト・ラピセの街へ到着する。ドン・キホーテコースは、夏の日中の気温は40〜43度くらいにまで上がり、吹く風は体温を超えるような風で、しかも道中には集落が少なく、街が点と点でつながっているような感じがする中、プエルト・ラピセの街は旅籠やレストランテ、バル等があり、ここで一服して元気回復の時間に充てると、後半の旅もまた快適なものとなります。
 プエルト・ラピセからは
N−W号線を北へ走ると、サフランと風車の街コンスエグラへ到着します。この街は、人口10、000人の小さな街ですが、丘の上には12世紀の城跡と9基の風車が良く整備されて残されており、丘の上からはコンスエグラの白い街並みと、ラ・マンチャの褐色の大平原が一望のもとに見渡すことが出来ますので、是非、丘へ登ってみて下さい。
 コンスエグラからは
CM−400を北へ1時間走るとトレドです。トレドからN−401を北へさらに1時間走るとマドリッドへ到着します。このコースはゆっくり走っても、2〜3日で十分まわれますが、トレドのパラドールでの一泊を加えれば、さらに思い出深い旅となることでしょう。

 
ミゲール・デ・セルバンテス(1547〜1616)
 
「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の作者セルバンテスは、1547年にマドリッド近くの大学町、アルカラ・デ・エナーレスで外科医の子として生まれました。セルバンテスが青年時代を過ごした16世紀中頃のスペインは、フェリペU世時代の「太陽の沈むことなき大帝国」として世界に君臨していた時代であり、特に大航海時代の第三期(1530年〜1595年)前後は、新大陸における征服活動の最もめざましい時代でもありました。
 このような時代的背景のもとに、セルバンテスは22歳で当時スペイン領であったイタリアのナポリに渡って兵士となり、1571年にはレパントの海戦でオスマントルコを破るなど活躍しましたが、左手を負傷し自由を失ってしまいます。1575年に退役して祖国スペインへ帰国の途上、運悪くトルコの海賊に襲われてアルジェへ連行され5年間にわたる奴隷生活を過ごしましたが、この間、セルバンテス自身が首謀者となって反乱や逃亡を試み、英雄的存在になったとも言われているのです。
 
1580年に釈放されて帰国した祖国・スペインでは、レパントの海戦をはじめ、多数の戦功が一切認められることもなく、定職にさえありつけなかったセルバンテスは、文筆活動に専念しますが成功せずに苦しい生活が続きます。
 1587年からは、海軍(スペインの誇った無敵艦隊)の食糧徴発人として、また収税吏として15年のながきにわたってラ・マンチャ、アンダルシアの各地を歩き回り、この間には銀行倒産等のあおりを食って、金銭上のいざこざで2度も投獄されると言う憂き目にもあっているのです。
 海軍・無敵艦隊の食糧徴発人や収税吏というような役どころは、決して民衆から歓迎される役ではないし、加えて夏には40度を超える厳しい暑さ、冬には凍てつくような寒さの続くラ・マンチャやアンダルシアの荒野での毎日の食糧徴発や税の取立ては、仕事とはいえ、セルバンテスの人生観に決定的な影響を与えたであろうことは容易に想像出来ます。このセルバンテス自身の人生体験が、「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の随所に色濃く描写されています。
 セルバンテスの時代の小説・物語には、大きく二つの流れがありました。一つは理想主義的な傾向の騎士道物語。もう一つは徹底したリアリズムを特徴とする小説です。前者は超人的な英雄が活躍し、ヒーローとなる騎士道物語であり、これに対してセルバンテスは、ずっこけたアンチヒーローを創り出すことによってセルバンテス自身が考える現実の「あるべき姿」を描写し、受け入れられたのです。これは、セルバンテスの過去の人生そのものと重なる部分が多く、セルバンテス自身の「パロディー小説」と、位置付けることが出来るのではないでしょうか。


 
エル・トボソ村
 
ドン・キホーテの想い姫ドゥルシネーアのモデルとなった、ドーニャ・アナが住んでいた村です。村の中心は、ファン・カルロス一世広場で、広場近くのセルバンテス図書館には、世界各国で翻訳された「ドン・キホーテ」が陳列されています。また、広場から歩いて2〜3分程の
CASA  MUSEO  DE  DULCINEA(ドゥルシネーアの家)は一般公開されており、一階には16世紀の農機具や巨大なオリーブ・オイル搾り機等が展示され、二階には当時のままに家具・調度品、寝室等が展示されています。

             

 
ファン・カルロス一世広場のドン・キホーテとドゥルシネーア。想い姫の前にひざまずくドン・キホーテの姿がセルバンテスの姿とオーバー・ラップし、ラ・マンチャの真っ只中にいることを感じさせる。

           
     
                
ドゥルシネーアの家(左)とエル・トボソ村の中心、ファン・カル
            ロス一世広場(右)。


 
カンポ・デ・クリプターナ
 
−本 文―
 「サンチョ・パンサよ、どうやら運命の女神は、われわれが望んでいたよりもはるかに順調に、事を運んで下さるとみえるぞ。ほら、あそこを見るがよいぞ。三十かそこらの、ふらちな巨人どもが姿を現したではないか。拙者はやつらと一戦をまじえ、やつらを皆殺しにし、やつらから分捕ったもので、おまえともども裕福になろうと思うのだ。」
 「逃げるでないぞ、卑怯でさもしい鬼畜ども。おぬしらに立ち向かうは、たった一人の騎士なるを知れ。」
 この時、一陣の風が吹き起こって、大きな風車の翼がいっせいに動き出した。それを見ると、ドン・キホーテはこう叫んだ。 「たとえ、おぬしらが、かの巨人ブリアレーオより多くの腕を動かしたところで、わしが目にもの見せずにおくものか。」 こう口走った彼は、危機をむかえたわが身を救いたまえと、想い姫ドゥルシネーアに心をこめて祈念しながら、盾をしっかりとかまえ、槍を小脇にかいこんで、ロシナンテを全速力で駆けさせ、一番手前にあった風車に突撃した。ところが、彼が思いきり槍を突きたてたその瞬間、風が激しい勢いで翼をまわしたものだから、その槍がへし折れただけでなく、馬と乗り手もそっくり翼にさらわれて、反対側にほうり出され、むざんにも、野原をころがるしまつだった。」

   

 
風車を巨人だと思い込んで「逃げるでないぞ、卑怯者・・」と叫びながら突進する主人公ドン・キホーテ。物語で有名なあのシーンはカンポ     デ・クリプターナの丘に建つ粉挽き用の風車であった。物語では「30かそこいらのふらちな巨人ども」と、書かれているが、現在は10基の風車が修復されている。

 
プエルト・ラピセ
 
「・・とある旅籠屋で、ドン・キホーテは騎士の称号を受ける儀式」を行います。その旅籠屋がこの街にあるベンタ・デル・キホーテ(ドン・キホーテ亭)です。セルバンテスは、この旅籠に何度も泊まったことがある、と伝えられています。
 小説ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャでは、愛すべき我らが遍歴の騎士・英雄ドン・キホーテの食生活について、「昼は羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み、たいがいの晩は昼の残り肉に玉ねぎを刻み込んだからしあえ、土曜日には塩豚の卵あえ、金曜日にはランテーハ(扁豆)、日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて、これで収入の四分の三が費えた」とありますが、ベンタ・デル・キホーテでは、当時のメニューをそのまま再現してくれています。「昼は羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み料理」のコシードは、ラ・マンチャの風土に合った料理です。スペインでは、コルデロ(羊肉)よりも牛肉の方が安く、実際ラ・マンチャの煮込み料理には牛肉が使われるのが一般的です。また、「昼の残り肉に玉ねぎを刻み込んだからしあえ」は、今でもスーぺル・メルカド(スーパー・マーケット)へ行くと、調理前の素材で売っていますが、これを買ってきて焼いて食べますと、ビノ・ティント(赤ワイン)と実によく合います。「日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて」のくだりを見ると、ここでは、鳩のごちそうも食べていたことがわかります。エル・トボソ村でドゥルシネーアの家を見学していた時、裏庭にたくさんの鳩の家があったことが思い出されます。スペインの人たちは、雉、鶉、鳩といった、日本ではなじみの無い野鳥料理が大好きでして、アランフェスの我が家の近くにも「エル・ファイサン」と言う、雉料理専門店があり、王侯貴族が好んで食べる料理として有名です。
 それにしましても、収入の四分の三が食費とは、エンゲル係数の高い食事ですね。

              

 
プエルト・ラピセの旅籠「ベンタ・デル・キホーテ(ドン・キホーテ亭)」ドン・キホーテが騎士の称号を受けた旅籠は、現在はレストランテ兼土産物店となっており、レ ストランテではラ・マンチャ名物のコシード(煮込み 料理)や特産の熟成した羊のチー ズ「ケソ・マンチェーゴ」を食べさせてくれます。(写真上・下)

                


 
英雄の誕生
  ―本 文―
「それほど昔のことではない。その名は思い出せない(思い出したくない)が、スペインはラ・マンチャ地方のある村に、槍や古びた盾を部屋に飾り、やせ馬と足のはやい猟犬をそろえた、型どおりの紳士が住んでいた。家には四十歳を過ぎた家政婦と、まだ二十歳まえの姪、それに、畑仕事や使い走りをするだけでなく、やせ馬に鞍をつければ、庭木の刈り込みもする若者がいた。そして、われらの主人公となる紳士は、やがて五十歳になろうとしていた。骨組みはがっしりとしていたものの、やせて、頬のこけていた彼は、大変な早起きで、狩が大好きであった。
 ところで、知っておいてもらいたいのは、この紳士が、ひまさえあれば(もっとも、一年中たいていひまだったが)、われを忘れて、むさぼるように騎士道物語を読みふけったあげく、ついには狩に出かけることはおろか、家や田畑を管理することもすっかり忘れてしまった、ということである。
 さて、思慮分別をすっかり無くした紳士は、これまで世の狂人のだれ一人として思いつきもしなかったような、何とも奇妙な考えにおちいることになった。つまり、みずから鎧かぶとに身を固め、馬にまたがって遍歴の騎士となり、世界中を歩き回りながら、読み覚えた遍歴の騎士のあらゆる冒険を実際に行うことによって、世の中の不正を取り除き、いかなる危険にも身をさらしてそれを克服し、かくして、とこしえに語り継がれる手柄を立てることこそ、自分の名誉をいやますためにも、国に尽くすためにも、きわめて望ましいと同時に、必要なことであると考えたのである。」


 
―考 察― 故郷を遠く離れて生活している人は、誰でも生まれ育った故郷がなつかしく、齢を重ねるごとに、物心がついた頃に通った学校や友・日が暮れるのも忘れて遊んだ山や川のことを思い、たまらないノスタルジアを感ずるものだと思うのですが、セルバンテスは「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の書き出しの冒頭部分で「それほど昔のことではない。その名は思い出せない(思い出したくない)が、スペインはラ・マンチャ地方のある村に・・中略」「そこである夜、ドン・キホーテは家政婦や姪に別れを告げることも無く、またサンチョのほうも、妻や子に何も言わずに、二人はこっそりと村を抜け出した。」と、述べています。
 この書き出し部分でもわかるように、セルバンテスの脳裏には現実の生活に対するさまざまな思いが去来し、錯綜していたのではないでしょうか。レパントの海戦での戦功に対する恩賞の不公平、生涯に何度も経験する投獄生活での屈折した日々、故郷に帰っても定職さえなく、海軍の食糧徴発人として、また収税吏として夏は酷暑の、冬は凍てつくような寒さのアンダルシアの荒野を歩き回った不毛の日々に対する慟哭の思いが、冒頭部分の書き出しとなっているものと考えられます。
 セルバンテスが「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」前編を出版したのは、1605年、セルバンテスが58歳の時です。10年の時を経て1615年、68歳の時に後編を出版しているのですが、一般的にみて、現在のサラリーマンの定年退職年齢前後に、前編の大作をまとめ上げ、さらに1615年、作者自身が亡くなる一年前に物語全体をまとめ上げると言う、セルバンテスの一連の創作活動を振り返る時、やはり作者自身の偉大性とともに、その特殊性を考えてしまいます。
 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と言う名作。悠久の歴史の流れの中でも忘れ去られること無く、世界の歴史とともに生き続けている作品は、現代流に言えば、極めて「知的付加価値」の高い作品であります。これだけ「知的付加価値」の高い作品を書き上げるためには、並々ならぬエネルギーが必要であったと考えられるのですが、それを人生後半の58歳の時に前編を、そして68歳の時に後編を完結させると言う、常人では為し得ないことを、気負うことなく完結させたセルバンテスの人間的・精神的な強さを改めて感じ入るのであります。

 参考文献 ドン・キホーテ セルバンテス作 牛島信明編訳
      
ワールド・ガイド ヨーロッパ7スペインJTB
      
スペイン・ポルトガルを知る辞典    平凡社
 
    スペイン・ハンドブック        三省堂
      
YAHOO! JAPAN          スペイン