スペイン巡礼の道


フェリペU世大学・翻訳学部

PROFESOR   加  瀬   忠

 
フランス・ブルゴーニュ地方ベズレーの街から、険しいピレネー山脈を越えてキリスト十二使徒の一人聖ヤコブの眠るスペイン西端の街、サンチアゴ・デ・コンポステーラヘと続く「スペイン巡礼の道」は厳しく、苦しい「巡礼の道」です。
 アンダルシア南部の街セビージャから「スペイン銀の道」を北上し、アストルガの街で交差する「スペイン巡礼の道」へと歩を進めた時に先ず思ったことは、「人はこの険しく厳しい道をなぜ辿るのか」と言う素朴な疑問でした。街を外れた道中には病院や救護施設等は何も無い、あるのはただ気が遠くなるほどの荒野と一本の道だけなのです。
 今まで勤めていた職場や仲間から離れ、この道を歩もうと決意するまでには、相当にポジティブなエネルギーが必要だったと思います。 「スペイン巡礼の道」をリポートする前に、私は先ず、この人間観察に非常に興味と関心を覚えました。一時の思いつきではとても貫徹出来そうもない、このことに挑戦する動機は一体何なのだろうか。
             

                 
「スペイン巡礼の道」、アストルガ付近。道中には何も無く、自力
            で歩き続けるだけ。最後に頼れるのは自分だけだ。貝の マークは
            巡礼路の目印。


 1000日「回峰行」
 「スペイン巡礼の道」を、ひたすら聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指して歩いている人たちを見て、私はその姿を、比叡山・延暦寺の1000日回峰行の行者に重ねていました。平安時代から天台宗の修行僧が行っている行の一つで、一日に比叡山を一周し、これを1000日間続けて終るあの修行です。この間には死を賭した不眠・不休・不臥のお堂入りがあり、常人ではとても為し得ない荒行です。
  人は誰でも、多かれ少なかれ「日常のごく普通の生活」に、多少は不満があると思います。
 「自分は、所属する組織からはみ出しているのではないか」「愛する人と何かの事情で別れ、その心の痛みに耐えかね、もう一人の自分を探したいと思って巡礼の旅に出た」「自分を変えたい、もしかしたら変えることが出来るかも知れない」と、思っているかも知れない人々。純粋な宗教心から、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指し巡礼することとは別に、いろいろな意味で心の痛手に耐えかねて歩いている人たちもいる。人は誰でも毎日が忙しく、ただ無為に時だけが過ぎ去ってゆく、この現実の社会から抜け出したいと言う願望もある。
 
カミーノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴへの道)は、そのような人たちも歩んでいる道であるかも知れない。

 
スペイン・アンダルシア南部のセビージャの街から、北へ真っすぐN―630号線に沿ってカンタブリア地方のヒホンの街まで延びる「ルータ・デ・ラ・プラタ(スペイン銀の道)」は、アストルガ及びレオンの街で「スペイン巡礼の道」と交差します。
 私の辿っている「スペイン巡礼の道」紀行は、ピレネー山脈に近いバスク地方のハビエル村を出発点とし、サンチアゴ・デ・コンポステーラまでの800キロを辿ります。


  ハビエル城
 

 
-サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと800キロ-
 
ハビエル・・そうです。日本へ最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルをスペインでは「ハビエル」といいます。イエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルは、キリスト教を伝えるために1549年に来日しました。
            

                   
フランシスコ・ザビエルが生まれ育った、ナバラ王国の貴族の城
            「ハビエル城」

 
ハビエル村を訪れ、中世の時代からそのたたずまいが少しも変わっていないハビエル城を見ながら「ザビエルは、なぜ遠い日本へ目を向けたのだろうか」という疑問がいつまでも残りました。16世紀中ごろのヨーロッパは、一体どのような時代だったのだろうか?

 ルター、ロヨラの宗教改革
 
ルネサンスの時代に生きた人々は、人としての真の信仰と社会のあり方を問い、カトリック教会がローマ大聖堂の建設資金を集めるために「免罪符」を販売していることを見とがめ、宗教改革が始まりました。
 1517年、ドイツのルターは「人は信仰のみによって救われる」と抗議し、スペインでもローマ・カトリック教会の発展をはかるため、イグナティウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルらが中心となって「清貧・禁欲・服従」を誓いの柱とした「イエズス会(耶蘇会)」が結成されました。
 イエズス会では、新しい布教の地をヨーロッパ以外の地にも求め、当時すでに喜望峰を回ってインドに達する「インド航路」が発見されていたこともあり、未知の東洋への布教をめざしてフランシスコ・ザビエルを東洋のゴヤ、マラッカに派遣しました。

        
           
 
サン・キリスト塔から、ザビエルが生活をした「聖人の間」へ通じる階段。ザビエルが日常生活の中で何回も通ったであろう日々が回想されます(写真・左)。フランシスコ・ザビエルは1549年に日本に渡来した最初のイエズス会士でした。スペインのナバラ王国の貴族であったザビエルは、鹿児島に上陸の後、平戸、山口など日本各地で伝道し、1551年に離日後、広東で病没しました( 写真・右)。

 フランシスコ・ザビエルの見た、戦国時代の日本人

 この国の人たちは、大層名誉を重んずる人たちで、人に侮辱されたり、軽蔑されたりすることを大変嫌います。
 武士以外の人たちは武士を尊敬し、武士は領主に臣従しています。これは、領主から罰を受けるというよりも、臣従しなければ「自らの名誉を失う」と考えているからなのです。

 
日本人の大部分は読み書きが出来ますから、祈りや教理を短時間に学ぶのに役立ちます。この国では盗人が少なく、もし盗人を見つけた時は非常に厳しく罰します。盗みの悪習を大変憎んでいます。彼らは善良な人々で、また知識欲はきわめて旺盛です。


 
「聖フランシスコ・ザビエル全書簡(新学社・歴史資料集)より一部抜粋」


 プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)

 

  -サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと730キロ-
 フランス・ブルゴーニュ地方ベズレ―の街を出発し、険しいピレネー山脈を越えてハカの街から来たフランス巡礼の道と、北寄りのロンセスバジェスから来たフランス巡礼の道が合流する街「プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)」。

                      
 「プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)」、橋の名前がそのまま町の名前になったロマンの薫りが漂う街です。 街の入り口には、Des de aqui todos los caminos a Santiago se hacen uno solo (ここからサンチアゴ・デ・コンポステーラへの全ての道はただ一本の道になる)と書かれていました。

 中世ヨーロッパの巡礼者たちは、カミーノ・デ・サンチアゴ(巡礼の道)を聖地目ざして進む時、橋がかかってなかった時代はこのアルガ川を大きく迂回しなければならなかったのです。悪路を歩く巡礼者にとって、それは気が遠くなるような道程だったと思います。
 
プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)、何と美しい響きを持った橋でしょう。この石造りの美しい橋は、11世紀の中頃にこの地を統治していたナバーラ王国の王妃が巡礼者のために掛けた橋なのです。

 巡礼者の宿・アルベルゲ
 
カミーノ・デ・サンチアゴ(スペイン巡礼の道)を辿りながら、私はいつも同じことを考えてしまいます。「人は、なぜこの道を歩くのだろうか」「身の回りの大きな荷物を一切背負って、気が遠くなるようなこの道をなぜ」。最後に頼れるのは自分だけ。この厳しい選択をするにあたっては、かなりのエネルギーと決断力が必要だったはずです。
 
このあたりの事情を、私の学部の学生に聞いてみました。すでに3回も巡礼の道を踏破している52歳になる学生の一人イサベルは「苦しみに耐え、ストイックに自分を痛めつけるような旅だけがカミーノ・デ・サンチアゴの旅ではないのよ。気持ちをリラックスさせ、気分を転換させるために一ヶ月の休暇をカミーノ・デ・サンチアゴへの旅にあてたのです」と、スポーツ感覚で話してくれました。
 長い上着を羽織り、杖をついて歩いた昔の巡礼者と、アウト・ドアー用のリュックを背負い、マラソン・シューズで巡礼の道を歩く現代の巡礼者とでは、その目的意識もかなり異なっているのかも知れません。

 巡礼者は一体、どこの宿に泊まっているのだろうか。 サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダの街で、私の宿泊したホテルの近くで偶然、巡礼者用の宿「アルベルゲ」を見つけました。
               

                      
ドミンゴ神父の名前が、そのまま街の名前になっているサント・
              ドミンゴ・ デ・カルサダの街で見つけた巡礼者の宿「アルベルゲ」

 
-サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと645K−

        
        
 11世紀の頃、ドミンゴ神父は、巡礼者のために救護院を造りました。今は、国営のパラドールとなっています(写真・左)。またドミンゴ神父は、巡礼者が歩きやすいように、石畳の道も造りました。今もサント・ドミンゴ・デ・カルサダの街は至るところ、石畳の道になっています(写真右・左)。

 徒歩、または自転車で巡礼の道を旅している人なら、アルベルゲに宿泊する場合、宿泊料は原則として無料ですが、寄付金として5ユーロ(650円)〜10ユーロ(1300円)を寄付するのが古くからの習慣のようです。ここでは、自炊用のキッチンやレンジがついているアルベルゲモありますが、休む部屋は勿論一人一部屋と言うわけにはいきません。修学旅行のように大勢で簡易ベッドで休みます。

 巡礼の道の中継地「レオン」

 
-サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと340キロ-
 
スペイン「銀の道」とサラマンカの北180Kでジョイントするレオンの街。この街は古くはレオン王国の首都であり、スペイン巡礼の道への中継地として発展した街です。
 レオンの街の中心は、スペインの三大聖堂の一つに数えられる「カテドラル」です。13世紀後半に建てられたゴシック建築様式の傑作で、その調和のとれた神聖なまでの美しさは、見るものを圧倒します。レオンのカテドラルは、外観の美しさと共に、120枚のステンド・グラスを使った内部の美しさでも良く知られています。


 レコンキスタ(国土回復運動)をリードした王国
 レオン王国は、かつてイベリア半島全体がイスラム勢力の支配下にあった中世の時代でも、キリスト教勢力の中心地としても栄え、レコンキスタ(キリスト教徒がイベリア半島からイスラム勢力を駆逐するために行った解放運動)をリードしたキリスト教スペインの最大都市でもありました。
               

                  
レオンのカテドラル。13世紀後半に建てられたゴシック様式の
              傑作で、その壮麗なたたずまいは「ゴシックの理想像」と呼ばれ
              ています。


 サン・マルコス橋を渡ってすぐ、サン・マルコス広場に面して建つ大きな建物が旧サン・マルコス修道院です。レオンのカテドラルがゴシック様式の傑作なら、旧サン・マルコス修道院はルネッサンス様式の傑作です。現在は、一部改装され、国営のパラドールとなっていますので、ここで宿泊することが出来ます。

            
  
  
ベルネスガ川に架かるサン・マルコス橋。中世以来、どれだけの巡礼者がこの橋を渡ったのだろうか(写真・左)。
旧サン・マルコス修道院。今は、その一部が改装され、五つ星の国営パラド―ルとなっています(写真・右)。


 
銀の道と交差するアストルガの街


 -サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと260キロ-
 
国道N−120号線をレオンの街から西へまっすぐ約40K、平坦なカスティージャ・イ・レオンの風景も、アストルガの街が近づくに従って変わってきます。見渡す限り平坦でまっすぐに伸びていた道も、このあたりから山道に差し掛かるのです。アストルガの街は、城壁に囲まれた小高い丘の上に広がっていました。この街は、古代ローマ時代から銀の道と交差する通商の要所として、また軍事・交通上の要衝として栄えた街です。
 
巡礼道に従って「プエルタ・デル・ソル(太陽の門)」をくぐると、カテドラルが見えてきました。「ほら、あの建物がガウディーの建てた司教館だよ。その向かいがホテル・ガウディー、その隣がバル・ガウディーさ」広場で道を尋ねた老人が、親切にガウディーゆかりの建物を教えてくました。

             

                   
教会と城と宮殿が一体となったガウディーの建てた「Palacio Episcopal
            (司教館)」(左)とアストルがのカテドラル(右)。

 私がスペインでガウディーの建築物と最初に出合ったのは今から10年前、バルセロナの「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」でした。バルセロナの地下鉄駅から地上に出てサグラダ・ファミリアの正面ファサードを仰ぎ見た時の感動は、今でも鮮烈に脳裏に焼きついています。その後、マドリッド日本人会の文化部で講演会が企画された折に、縁あって講師としてお迎えしたのが、サグラダ・ファミリアでマリア様の像等を彫り続けておられる日本人の彫刻家、外尾悦郎(そとおえつろう)氏でした。
 講演会当日、早めにおいでいただいた外尾悦郎氏と、マドリッド日本人学校・校長室でしばらくお話をしたのですが、先ず挨拶代わりに見せていただいた左手中指と人差し指、薬指との間に出来た、盛り上がった大きな硬い「ノミだこ」を拝見した時の驚きと、「こんな大きな仕事は、やらされていたのでは出来ません。仕事が好きだから出来るのですよ。」と、静かに語っておられた外尾氏の姿が今でも忘れられません。
 アストルガの街は、今では古代ローマ時代の歴史と伝統を誇る「銀の道の街」、というよりも、むしろガウディーゆかりの街としての知名度が高いくらいの街かも知れません。

               

                   
バロック建築のファサードがバラ色に輝くアストルガのカテドラル。

 
赤い街、カストリージョ・デ・ロス・ポルアサレス
 
アストルガの街からは、LE142号線を道なりに西へ進みます。このあたりの植生は一面荒地で、ところどころにほんの少し、申し訳程度の冬小麦畑が見えるだけで、他には何も見ることが出来ません。産業らしきもの何一つ見当らないような深い山懐に抱かれた家々では、何を糧に生計を立てているのだろうか。気が遠くなるような慟哭の思いにさいなまれます。

               

                      赤
い街、カストリージョ・デ・ロス・ポルアサレスは、街全体が
              歴史保存地区に指定され、家を修理するにも、新築するにも壁や
              扉の色が決められています。

 誰もいない「廃村」のようなエル・アセボ村
 
険しい山道のLE142号線を道なりにさらに西へ進むとエル・アセボの村が見えてきました。数メートル先が見えないような霧深い山中で、人や家の明かりに出逢うと、ホッとします。 エル・アセボ村のあたりでは、人が誰もいない「廃村」や「廃屋」が目立ちます。「村を出てゆく人はいても、巡礼者以外は入ってくる者はいないね」。エル・アセボの村でただ一軒だけ開いていたバルで、老人が寂しそうに話していました。

               

                      
人が誰もいない「廃村」のようなエル・アセボの村。手前右の
              建物は、村で
ただ一軒だけ開いていたバル。人の温かさに触れ、
              暖かな室内で飲んだエスプレッソ・コーヒーの味は格別でした。

                  
  
              
地図にものっていないような険しい「巡礼の道」でも、こちらが「あれっ・・道に
         迷ったかな」と、思う頃、必ず写真左・右のような標識が出てきます。貝のマークは
         巡礼のシンボルですから、すぐに進む道はわかります。

 プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)


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サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと180キロ-

 
「プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)」があるビジャフランカ・デル・ビエルソの街のサンチアゴ教会から、聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラまでは、まだ標高1300メートルのセブレイロ峠を越える180キロの難所が待ち受けているのです。ビジャフランカ・デル・ビエルソまで620キロにも及ぶ深山を踏破しながらも病に倒れ、巡礼の旅が継続出来なくなってしまった無念の巡礼者の為に、法王は、このビジャフランカの「プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)」をくぐれば、聖地到達と同じような「免罪」を受けることが出来るとしたのだといいます。無念の巡礼者たちは、この街のサンチアゴ教会へ到達出来れば、神の許しを受けることが出来たのです。

              

                    
プエルタ・デル・ペルドン(許しの門)。ビジャフランカの街
             のサンチアゴ教会の「許しの門」をくぐれば、聖地サンチアゴ・
             デ・コンポステーラへ到達出来なくとも、巡礼者は神の許しを受
             けることができるのだという。

 
スペイン巡礼の道で出逢った、神に近い人へスス・ハトさん。
 
スペイン巡礼の道を辿っていて、神のような人に出逢いました。ビジャフランカの街でアルベルゲ(巡礼者の宿)を経営するへスス・ハトさん。巡礼者の為に宿と食事を無料で提供し、病人の世話もしているのだという。私たちが訪れた時にも、昼食のためのパン作りで多忙な中を、丁重にアルベルゲ内を案内して下さりました。通常巡礼者がアルベルゲ(巡礼者の宿)で宿泊と食事のお世話になった時は、その気持として5〜10ユーロを寄進するのが慣例なのだそうですが、へスス・ハトさんはそれさえも受け取らずに、ひたすら多くの巡礼者の為に尽くしているのだといいます。人は俗世間の諸々な欲望から離れ、ただひたすら他者の為に尽くし続ける事が出来るのでしょうか。どうすれば、人は天台宗の高僧・大阿闍梨のように「公」の為にだけ尽くす高邁な精神を持ち続けることが出来るのでしょうか。
 
へスス・ハトさんの人間性に共感した巡礼者は、まだ建設途上のアルベルゲ建設の為に労力を提供し、自分の気持を伝えるのだと聞きました。

             

                   
ビジャフランカの街のサンチアゴ教会(左)と、へスス・ハトさんのア
             ルベルゲ(右)。アルベルゲは「
Hospital de peregrinos AVE FENIX」と名
             付けられていた。ギリシャ神話に登場するフェニックスは、500年生
             きて自分の死期が迫ると、自らの巣と体を燃やして灰となり、そこから
             再生する「不死鳥」といわれる。


            
         
                                   
サンチアゴ教会の裏手にある墓地。聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラ
 
         まで到達出来ずに病に倒れ、この墓地に埋葬されている巡礼者も多数いると
           聞いた(左)。限りなく神に近い存在のへスス・ハトさん(右)。


 最後の難所、標高1300メートルのセブレイロ峠 

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サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと150キロ-

 
ビジャフランカの街からは、いったんN−6号線に乗り、約30K道なりに北西方向に走り、LU634号線をセブレイロ峠に向かいます。
 
一面豊かな緑の山道、ふと立ち止まると聞こえて来る小川のせせらぎ、ピレネー山脈越えから辿ってきた今までの巡礼の道とは異なり、ここからの道は、どこかなつかしい故郷の山々に似た風景に心安らぐ思いがしますが、現実は登っても登っても、どこまでも続く葛折の坂道。標高1300メートルの峠道は、寒暖の差が激しい内陸性気候のカスティージャ・イ・レオンから雨量の多い穏やかな西岸海洋性気候で知られるガリシア地方への入り口のはずなのですが、一年の大半が吹雪と風雨に見舞われているという、厳しい気象条件の峠です。数メートル先も見えないような深い霧と氷雨。このまま峠道から転げ落ちてしまうのではないかと思えるような不安と幻覚さえ覚える峠道です。
 やっと峠の頂きに着いたかな、と思っても、またその先に長い道のりが続きます。霧が少し晴れ、薄日がさして「やれやれ」と、ホッとする間もなく、また次の峠道を登ると深い霧に包まれてしまうのです。これほど厳しい条件の峠道を、巡礼者は一体どのような気持で歩き続けているのだろうか。私の担当する翻訳学部で、もう何度も「巡礼の道」を踏破したという52歳の学生イサベルに、このあたりの心情を再度聞いたことがあります。「巡礼の道は、平坦で平穏な道よりも、少しきつい道のほうが気持はハッピーなの。そのほうが少しでも神に近づくことが出来るような気がするの」「食事だって、セブレイロ峠には食べるところがないし、ドライ・フルーツをかじりながら歩き続けるのよ。ストイックな峠道の旅だからこそ、神と一体になれるの」といっていたことを思い出します。そうか、厳しい道の方がハッピーなのか・・。

 
峠の頂上近く、進行方向左手山奥に集落が見えてきました。粗朶葺きの大きな屋根を地面に届いてしまうくらいに低くして、石の壁を積み上げただけの家々が寄り添うように集落を作っていました。平家の落人部落を想起させる、人里離れたこんな峠の奥深くに、どうして人が住み着いたのだろうか。集落の様子を良くみると、どこかで見たようなつくりです。これはたしかケルト人遺跡で見かけた家屋のつくりです。集落の中へ入ってみますと、ロマネスク様式の教会も救護所もあり、救護所は人を泊める宿屋として営業していました。

               

                       
粗朶葺きの大きな屋根全体を低くし、石を積み上げただけの壁
               で吹雪と風雨を防ぐように工夫された住居。ケルト人遺跡で見
               かけた家屋のつくりです。


 峠を下ってサモスからサリアの街へ、あと一息だ!

  −サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと95キロ−
 セブレイロの峠道をくねくねと下って開けたサモスの街の入り口に、サモス修道院がありました。清貧・貞潔・従順を誓い、専ら修行と労働に従事することを教義としたべネディクトゥスの修道院です。サモスの街では、LU634号線沿いのガード・レールがすべて巡礼のシンボルであるホタテ貝の文様(写真)になっており、ここが巡礼の道であることを実感させられます。

                       
                    
LU634号線沿いのサモスの街。ガ−ド・レール はすべて
             巡礼のシンボ
ルであるホタテ貝の文様だ。遠くに見えるのは、
             サモス修道院。


 サンチアゴ・デ・コンポステーラ

  ― 聖地にたどり着く ―


 サリアの街からはC535号線を少し走り、N547号線に乗り換えてからは、まっすぐ西へ約70キロ進みます。このあたりは、巡礼の道とはいえ道路も良く整備されていますので、一時間も走らないうちに、行く手前方に目指すサンチアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂が見えてきました。
 随分長い道のりでしたが、思えば4年前、ふとした事がきっかけでフランス・ピレネー山脈の麓にあるバイヨンヌとポーの街に投宿し、その街が古くから「カミーノ・デ・フランセ(フランス巡礼の道)」で知られた街であることを知りました。そして、これも全くの偶然なのですが、ピレネー山脈を越えてスペインのハカの街からサラゴサの街へと歩を進めたその道が、「カミーノ・デ・サンチアゴ(スペイン巡礼の道)」のもう一本のルートであったのです。
 
フランスからスペインへと続く巡礼の道のスタートを切ってしまったのですから、これはもう、サンチアゴ・デ・コンポステーラを目指すしかないだろうと、極めて短絡的な動機で「サンチアゴ巡礼の道」を辿り始めたのです。ところが、聖地へ向かって歩を進める程に「人はなぜこの厳しい道を歩むのだろうか」という素朴な疑問と、自分自身が日常的な自分から、非日常的な自分に次第に変わってゆく「高邁な精神性と宗教性」が呼応した内なる自分に気づくようになっていたのです。カミーノ・デ・サンチアゴは実に不思議な道です。
 サンチアゴ・デ・コンポステーラのエスパーニャ広場から大聖堂正面入り口のファサードから栄光の門をくぐり中へ入りました。栄光の門の中央支柱には、サンチアゴが巡礼者に祝福をおくっています。像の下の柱に手をあて(写真・下)巡礼が無事終了したことを告げました。古来、どれだけの人たちを迎えたのでしょう。支柱は、手形通りに磨り減っていました。さらに大聖堂を進んだ中央の祭壇には、聖者サンチアゴの像が飾られていました。中央祭壇に登って、後ろから聖者サンチアゴに触れることも出来ました。

                

                        
栄光の門の中央支柱に手をあて、巡礼の道を無事踏破
               したことを告げるのです。


           

                 
エスパーニャ広場からのサンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の
            正面。

 
 人は、人智を超えた偉大なものには従い、受け入れた方が

                   自分らしく生きられる・・
加瀬 忠。
                             
         
サンチアゴ巡礼の道800キロを踏破して。 平成15年11月23日(日)