−ポンペイ「古代の夢の跡」ー

 フェりぺU世大学・翻訳学部
 元PROFESOR加瀬   忠


  ポンペイ最期の日の朝
 
紀元前4世紀以来、古代ギリシャ、その後ローマの殖民都市として繁栄を続けていたポンペイ。運命の日、紀元79年8月24日、この日もポンペイの人々は、朝から通常の商業活動で忙しく立ち回っていた。この直後のベスビオ火山の大噴火を誰が予測できたでしょうか。

           


 
べスビオ火山から約20K離れたナポリ湾の夕暮れ。このコニーデ形をしたベスビオ山が、20、000人以上ものポンペイ市民の命を奪ったとは信じ難いような美しさだ。遠くに霞む麓の街は、新しいポンペイとエルコラーノの街です。

 ベスビオ火山の大噴火
 
ベスビオ火山の大噴火によって、政治的・経済的に、そして芸術的にも繁栄を極めていたポンペイが、2、000年前の生活そのままに一瞬のうちに閉じ込められてしまいました。以来、当時のポンペイ市民の生活がそのまま火山灰の下で眠り続け、18世紀からの発掘によって、ポンペイ「古代夢の跡」が蘇ったのです。歴史資料によりますと、ベスビオ火山の噴火によって積もった火山灰、火山礫は4メートル以上にも達したのだといいます。何しろ、紀元79年の大噴火の前は3、500メートルであったベスビオ山の高さが、大噴火によって1、277メートルになってしまったといいますから、山が2、223メートルも吹き飛んでしまったことになります。自然災害の力というものは、本当に恐ろしいものだと思います。

 2、000年前といいますと、日本では弥生文化の時代です。狩猟・採集の移住生活から、やっと稲作による定住生活が始まった時代です。水田の近くに村をつくって住み、鉄器が大陸から伝わってきた時代です。我が国の銅剣や銅矛、たて穴住居の時代に、ギリシャやローマ帝国、その植民都市・ポンペイでは、今日と変わらないような文明・文化が花開いていたのですから驚きです。

 ナポリからマリーナ門入り口へ
 
ナポリ中央駅からベスビオ周遊鉄道に揺られながら40分、車中ではアコーディオンの流しがカンツォ―ネの曲の数々を聞かせてくれますので、異国情緒が豊かな「ベスビオ周遊鉄道」の旅を楽しむことが出来ます。このあたりの植生は、温暖なナポリ湾の気候の影響で、オレンジ、レモン等の柑橘類、ぶどう、イチジクの果実類、野菜ではブロッコリー、カリフラワー等の肥沃な土壌に育つ野菜類が目立ちます。

           

 
ナポリ中央駅からベスビオ周遊鉄道のヴィッラ・ディ・ミステリ駅で下車すると、徒歩数分で写真のマリーナ門入り口へ到着します。ポンペイの街への入り口であったマリーナ門は、左側が人、右側が荷車の入り口と分けられていました。また、入り口上部の石の積み方を見ていただくと、アーチ型に積み上げられているのが分かりますね。この工法はセゴビアに残るローマ水道橋のア−チ型工法と全く同じです。


        
         
 
マリーナ門からポンペイ遺跡に入り、まっすぐ進むと、町の行政機関や裁判所、市場などがあるフォロ(公共施設)・写真左に到着します。この広場の大きさは東西38メートル、南北142メートルあったといいます。上の写真右と下の写真は、ポンペイの街を東西に二分していたアボンダンザ中央大通りです。


                    
 
ポンペイの街の中央大通り。道路は石で舗装され、幅は2.5メートルから4.5メートルでありました。また、左右の歩道は、車道より30センチ高くなっており、通常は雨がふっても足が濡れることがないように設計されていました。道路を横切って いる飛び石は、大雨が降って車道が冠水した時のためのものですが、三つ置いてある 飛び石の二つの石の幅は、馬
車が通れるだけの幅に設計されていたのだといいます。


              古代ポンペイの政治形態は「共和制」

 
アッセリーナの酒場の落書き

 20、000人以上の人口を擁し、経済活動も活発であったと考えられる古代ポンペイの政治形態は、「共和制」であったのではないかと考えられます。それも、現代の議会制民主主義の初期の形態であったのではないでしょうか。私がこのように推論する論拠は、街の大通りアボンダンザ通りに面したアッセリーナの酒場の壁には、選挙の宣伝文がたくさん書かれており、「造営官(アエディリス)の選挙に、何人かの候補者を推薦したので、皆さんどうぞよろしくお願いします」との記述も見られるし、候補者を個人的に応援する市民が、住居のファサードの一部を提供していたようでもあるからです。

 
私が、ポンペイの政治形態を「専制君主制」ではなく「共和制」ではなかったのかと推論するもう一つの論拠は、紀元14年に君臨したローマのアウグストゥス(オクタウィアヌス)帝の政治がこれに近い政治形態だったと考えられているからです。 「アウグストゥス(オクタウィアヌス)帝は、その長い治世の間に、ローマ帝国に秩序と平和をもたらした。アウグストゥス帝は、実際には専制君主としての権力を持っていたが、共和制の伝統の擁護者としてふるまった。彼は、共和制時代の最高議決機関だった元老院を尊重した」(世界の歴史・HISTORY  OF  THE  WORLD 講談社)とあり、当時の時代的背景にも共通点が見られるからです。

 
バジリカ(民事裁判所)
 
「バジリカ」、紀元前2世紀に建てられたこの建物は、文献「ポンペイ・考古学的都市ガイド」によると、民事裁判を行うために建てられた建物なのだと伝えられています。
 
実に驚くのですが、ポンペイという古代都市は、この時代に、私法上の法律関係において生起する様々な人間臭い民事事件に対して、民主的な手法で裁判を行っていたのです。


             

 
バジリカ、美しい28本のエンタシス工法(柱の中央部をふくらませ、安定感を与える)の柱で仕切られたこの建物では、ポンペイ市民の民事裁判を行うと共に、市民の商談の場としても大いに利用されたと、考えられています。

 アポロの神殿
 
ベスビオ火山が大噴火する約100年前、紀元前20年前後、ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、自分自身の守り神であるヴィ―ナスの神殿とアポロの神殿(写真下左側)を、ポンペイの街に建立させ、それをポンペイの人々に崇拝させました。
 
古代ポンペイの街には、随所にローマ皇帝の威光が色濃く残っています。

              

                    
ギリシャ神話の神、アポロンを祭った「アポロの神殿」

 皇帝ネロの凱旋門
 
古代ローマの皇帝ネロ(54年〜68年)の凱旋門(写真下)。皇帝ネロは、ローマの皇帝というよりも、私たちには、世界史で学習した時の、母親と皇后を殺した暴君としてのイメージが強いのですが、ポンペイの街にもその影響力が色濃く残っています。
              


 
古代ポンペイの芸術

 
 ― ポンペイの赤 ―
 
「2、000年前ベスビオ火山の突然の噴火で埋没したポンペイには『ポンペイの赤』と呼ばれる、赤を基調とした見事なビーナスの壁画の数々が残されている」。ポンペイの古代遺跡調査に向かう前に、私は、予備知識としてはその存在を知っていました。 ベスビオ周遊鉄道でナポリ中央駅からポンペイに向かい、ヴィツラ・ディ・ミステリ駅で下車をしました。駅前から正面入り口のマリーナ門までは、歩いてほんの数分。マリーナ門からポンペイ遺跡へ入場して、北西方向へめざす「秘儀荘」へと歩を進め、執政官通りから一旦エルコラーノ門を出て、「秘儀荘」へ辿り着きました。

 階段をおりて建物奥の「秘儀の間」に描かれた「ポンペイ・レッド」を基調とした「ディオニュソス秘儀の絵」や鮮やかな赤(写真)で描かれた壁画の数々を見て、私は、一瞬立ちすくんでしまいました。2、000年もの間、4メートル以上の火山灰・礫に埋もれ、風雨にさらされてもなお、この美しい色彩を失わなかったのですから、古代ポンペイの芸術家は、一体どのような絵の具を用い、どのような描き方をしていたのでしょうか。

            

                   
ディオニュソス(バッコス)は、ギリシャ神話に登場する
            酒の神ですが、古代のローマ では、ディオニュソスの神が
            広く人々の信仰の対象とされていました。


 約2、000年もの間、あの美しい「ポンペイの赤」が失われなかった秘密は、どうやら絵の具と仕上げにあリました。
 絵の具の秘密は、石灰とロウを加えた石鹸水に色を混ぜて絵の具を作っていました。仕上げには、鉄ごて、大理石のローラーや磨き石等で描いた絵を磨いた後、最後に布でつやだしをしていました。

            

                   
セメレの妊婦とディオニュソス(バッコス)の誕生を描いた絵だ
            といわれています。

           
     
                 
セメレとディオニュソス(写真左)とギリシャ神話に登場する酒の神・
           バッカス(ディオニュソス)への貴婦人の入信の儀式(写真右)の壁画
           です。


  古代ポンペイ人の人生観
  ― 古代ポンペイのディオニュソス神話と人生、その愛と死 ―

 
ポンペイの人々は、人生におけるどのような瞬間にも、それが愛する人との楽しい一時でさえも、人生の「死」という極めて現実的な事実を忘れはしなかったのです。この世に生まれ出で、時が流れてやがて成人となり、そして人を愛し、ディオニュソスの神々にその身を捧げても尚、時が経過して「死」が訪れるという、人生の厳粛なる事実を忘れることはなかったのです。

 ウェヌス(ビーナス)の家
 
ポンペイの街の中心フォルムから、アボンダンザ通りを円形闘技場へ向かって歩くと、間もなく右手に「ウェヌス(ビーナス)の家」があリます。中庭を進み、奥の壁正面に「貝の中のウェヌス(ビーナス)」が描かれていますが、私は、この壁画を見た時、ルネッサンス期にイタリアのポッティチェッリが描いた「ヴィ―ナスの誕生」の絵を連想しました。どちらも海・貝の中・ウェヌスと、全く同じ構想で描いたとしか思えないような作品です。時代は相当隔たっていますが、愛の女神ビーナスに対する思いは少しも変わっていないのだと思われます。

             

                    
貝の上に横たわる愛の神ウエヌス(ビーナス)。控え目
             だが官能的で物憂げ
な雰囲気が漂っています。ポンペイ
             の市民は、海から生まれた美の女神ウェ
ヌスを熱心に崇拝
             していました。


 ポンペイの居酒屋
 
アボンダンザ通りをサルノ門に向かって歩くと、左手にアッセリーナの居酒屋(テルモポリウム)があリます。この居酒屋では、客に温かい料理とビノ(ワイン)を出してくれる、スペインでいえばバルのような感じの店だったと考えられます。

 
この居酒屋からは、歴史上、貴重な発見がありました。壁の中に埋め込まれた箱の中から、374枚のアッシス銅貨と1、237枚のクワデュランス銅貨が見つかったのです。何れも小銭であるところから、アッセリーナの居酒屋の、一日の売り上げではなかったのかと考えられます。日本では、弥生時代の中期にあたるこの時代に「ポンペイでは貨幣経済が発達していたと考えられる」と、推論ずる論拠であります。
 アッセり―ナの居酒屋には、バッカス(酒の神)を祭る祭壇(写真下の正面及びその拡大写真)が描かれており、家族を守る守護神としても崇拝されていたようです。

             

                    
アッセり―ナの居酒屋と、正面奥は家族を守る守護神・第三
             様式の壁画。

              

                      
正面奥・第三様式の壁画の拡大図。

 
パレストラ(大体育場)
 
古代ポンペイの若者や市民は一体どのようにして身体を鍛え、健康を維持していたのでしょうか。秘儀荘やポンペイの街の至る所に描かれている美の女神やエロスの神々、若者の見事な肉体を見ると、その均整のとれた美しさに驚かされます。よほどバランスの良い食事と日常的な運動等で、積極的に行動体力の鍛錬・増強に励まなければ、あれだけの肉体美を保つことは難しいでしょう。貝の中に横たわるビーナスは、見事な裸体で、溢れ出るような愛とエロチシズムに圧倒されます。

 ポンペイ遺跡東端、円形闘技場の隣にパレストラ(大体育場)があります。
 古代ポンペイの人々は、このパレストラで身体を鍛えていたようです。パレストラ(写真下)は、縦141メートル、横107メートル、中庭中央にはプールも備えた総面積15、000平方メートルの大体育場でした。人々は、円盤投げや跳躍競技、重量挙げ、レスリング、あるいは鎧を着て走る競争等で肉体と精神を鍛えました。 パレストラの周囲には、プラタナス等の木々が植えられ、運動で疲れた人々が木陰で休めるように工夫されていました。
 スポーツの後は、街の浴場で汗を流しました。

              

                      
ポンペイの街のパレストラ(大体育場)。写真左手中央
              付近は、プールの跡。


 ポンペイの浴場跡
 
古代ポンペイの人たちは、よほど風呂好きな人たちだったようで、ポンペイの街の中に、公衆浴場が三つもありました。そのうちの一つがフォルム浴場(写真下)です。フォルム浴場は、ポンペイがローマの植民市となった当初からの浴場でありましたが、79年の噴火当時のまま閉じ込められてしまったものです。

 
浴場には、温浴室、熱浴室、冷浴室等があり、熱浴室などは、床下からボイラーで熱して蒸し風呂にする、今で言えばサウナ風呂なのですね。熱浴室中央には沐浴用の水盤(写真)があり、沐浴用の水盤の天井には、明り取りがあって、室内を明るく照らしていました。
 
入浴後は、風呂番がいてマッサージや毛抜きのサービスをしてくれたようです。 パレストラで運動をした市民も、浴場で入浴し、疲れをとっていました。

              

                      
フォルム浴場の熱浴室。床下をボイラーで熱して蒸し風呂
              にする。中央の
水盤は沐浴用の水盤で、天井には明り取り
              の小窓がある。


 貴重な生活用水
   ― 水を得るための工夫 ―
 
2、000年以上も前、古代ローマ、ポンペイの人々にとって、生活用水を確保するということは大変なことでした。私たちの現在の生活のように、水道の蛇口をひねれば、いつでも水が出てくるという時代ではありませんでしたからね。
 
そこで、ポンペイの人たちは、一体どのように生活用水を確保していたのかといいますと、雨水を上手に使っていたようです。雨が一箇所に集まるように屋根の傾斜を工夫し(トスカナ式家屋)広間の中央には、トスカナ式屋根の中央に開けた四角い窓(コンプルウィウム)と同じ大きさの四角い広間の雨水受け(インプルウィウム)に集めていました。

               

                    
広間の中央に設けられたインブルウィウム(広間の雨水うけ)

              

                       
スタビア通りとノーラ通りの交差点に設けられた泉。

 ポンペイ市民の食生活
 それでは紀元前後、今から約20、00年も前のポンペイの人々の食生活は、一体どんなだったのでしょうか。私は、このことに非常に興味と関心をおぼえます。
 資料や秘儀荘の壁画の数々、踊るバッカスの巫女、キタラ(ギリシア琴)を弾くアポロの像、そしてエロスの神々の美しい身体の線は、よほど栄養のバランスが良くないと保てないと思います。紀元前後と言いますと、我が国では弥生文化の時代で、狩猟や採集の生活からやっと稲作、金属器の使用が始まり、各地に小国が分立していた時代ですからね。
 
 主食はパン

 
ポンペイの人々の主食は、パンであったと考えられます。
 
炭化した食べ物の発見の中に、大きな丸パンを見ることが出来ます。この丸パンは、今、私が住んでいるアランフェスのパン屋さんで売っている丸パンと全く同じです。2、000年前とほとんど変わらないのですから驚きます。 パンの造り方も今と同じです。貯蔵しておいた小麦をロバに引かせた挽き臼でひき、粉を作業台でこねて焼いた。パン屋さんは、ポンペイの街に31軒もありました。

 野菜・果物
 
ポンペイの人々が好んだ野菜は、カリフラワーだったようです。この他にキャベツ、レタス、チコリ、バジリコ、クレソン、ニンジン、玉ネギ、ニラ、ネギ、さらに豆類では、そら豆、グリーンピース、エジプト豆等がわかっています。これらの野菜は、日本の八百屋さんでも売っていますね。資料によりますと、カリフラワーは生で食べることが多かったようですよ。
 次に果物ですが、これも私の大好物が続きます。先ずリンゴ、そしてザクロ、梨(ペラ)、ぶどう、イチジク、プラム、サクランボ、桃、くるみ、アーモンド、オリーブ等です。野菜は塩漬け、酢漬け、果物は乾燥させて蜂蜜に漬けて保存したようです。

 蛋白質類
 
資料では、野菜・果物類ほど触れられていないのですが、壁画から推測しますと、鶏(雉、ウズラ等の野鳥類)、鴨・鵞鳥、青魚、鯛、鮪、貝類などを食べていたと思われます。 チーズは羊、乳牛のチーズが多かったようで、特に燻製の技術が発達していましたので、羊の燻製チーズは美味だったようです。

              

                      
ポンペイの家庭に残る「かまど」の跡。豊富な野菜類、
              蛋白質類を、ガルム
塩等の調味料を使って料理してい
              たものと考えられます。ついこの間まで の
日本の家庭
              の土間での炊事の模様を彷彿させます。

 
調味料はガルムと塩
 
ガルムと塩、特にポンペイの人々に美味珍味として評価が高かったのはガルムです。
 これは、サバ、イワシ等の青魚類を塩漬けにして発酵させ、滲出したその上澄み液を調味料としていろいろな料理に使いました。日本では、秋田の「しょっつる(塩汁)」、能登の「いしる」が「ガルム」と同じなのでしょうか。


  居酒屋
 
ポンペイの人たちは、ベスビオ火山の麓で栽培されていたぶどうから、美味しいワインをつくる技術をすでに持っており、居酒屋で大いに飲んでいたようです。つまみには羊の燻製チーズを食べていたようですから、今の私のワインの飲み方と全く同じです。

 
遺跡の中のぶどう畑
 
ポンペイ遺跡の第二地区、ヌケリア通りを挟んでパレストラ(大体育場)の向かいに、ぶどう畑(写真下)があります。「ポンペイ古代遺跡とぶどう畑」、何だかとてつもなく距離のある組み合わせですが、一方、私にはすごい夢とロマンが感じられましたので、資料を調べてみました。

 古代ポンペイの人たちは、2、000年以上も前からワインを飲んでいたようです。ギリシャ神話にも酒の神バッコス(バッカス)にまつわる話はしばしば登場しますし、酒を飲むという生活習慣は、古代ポンペイの人々にとっても、それは日常生活の一部でもあったようです。それは、アッセリ―ナの居酒屋の繁盛振りを見てもよく分かります。
 さて、古代遺跡の中のぶどう畑ですが、その物語は、遺跡の発掘調査の過程で発見されたぶどうの種子の化石を解析して始ったようです。それにしましても、世界的な古代遺跡の中でぶどうを栽培し「2、000年前のワイン」を復活させるのだと
             

                    
ポンペイ古代遺跡の中の「ぶどう畑」。2000年前
             と同じぶどう「ピエ
ディロッソ種」のぶどうが栽培さ
             れているのです。


いうコンセプトはすごいですね。この、とてつもない企画の発案者もさることながら、この企画を許可した当局の担当官の懐の深さにも感心させられます。

 2、000年前、ポンペイでは貨幣経済が発達していた
 20、000人以上の人口を擁し、商業活動がかなり活発だったと考えられるポンペイの街の商取引は、どのような形だったのでしょうか。古代においては、一般的に考えれば、品物を貨幣などの媒介物によらず、直接他の品物と交換する物々交換の形態を想起しますよね。この頃の日本は、弥生式文化の時代だったのですから。

 ところが、街の大通りに面したテルモポリウム(居酒屋)の壁の中に埋め込まれていた箱の中から、たくさんの銅貨が発掘されたのです。いずれも小銭であったところから、居酒屋の一日の売上であったのではないかと考えられるのですが、これは大変な発見であります。

 日本史に目を移してみますと、我が国で初めて貨幣が鋳造されたのは708年です。中学校の歴史の時間に学習した「和銅開珎」です。710年に平城京に都を移すのですが、我が国で貨幣経済が発達するのは、このずっと後になります。ポンペイの街の経済が、いかに進んだものであったのかがわかります。

 
まとめ
 
ポンペイの街の豊かな経済生活は、恵まれた立地条件によるところが多かったと考えられます。ナポリ湾に近く、モノや人の移動が、内陸部の国々と比較して有利であったことが、この街の発展に大きく貢献していました。
 
また、政治形態の項でも触れましたように、この国の政治形態が「専制君主制」ではなく「共和制」であった事が、人々をノビノビと商業活動に専念させる土壌を培ったし、良い意味での競争の原理を導入した経済活動が展開されるバック・グラウンドとなっていたのです。

 ポンペイ「夢の跡」を執筆するにあたっては、加瀬 忠個人が資料を分析し、現地調査でまとめ上げたものです。ですから、必ずしも、いわゆる「学説」に裏付けられたものではない記述も多分にあることをご了承ください。

平成15年12月16日(火) マドリッド・フェリペU世大学研究室にて。

参考文献   ポンペイ考古学的都市ガイド  (日本語訳 加瀬 忠)
ポンペイ新考古学地区・芸術歴史(日本語訳  同  )
ポンペイ・奇跡の町 ―甦る古代ローマ文明―ロベール・エティエンヌ著
パノラマ・世界の歴史    講談社
新しい社会 歴史     東京書籍
新世界史資料       帝国書院
Yahoo! Japan 世界の国々 イタリア