マドリッド通信ー108


  カセ41会教育懇談会特集

 日時 平成17年2月13日(日)15時00〜17時00
2 場所 妻沼町 中央公民館・視聴覚室
3 基調講演  加瀬 忠氏  スペイン国立フェリペU世大学・翻訳学部 教授
4 司  会  小林芳明氏  日本たばこ勤務
5 パネリスト 福島眞次氏  警視庁・警察署課長
 
       吉野晴康氏  東工業株式会社・本部長
 
       大島敏男氏  有限会社大島精工・社長
 
       大島美津男氏 電機会社勤務
 
       塚田祐二氏  三洋東京マニュファクチャリング会社勤務
 
       大鷲 実氏  有限会社コムテック・社長
6 基調講演

  小・中学校教育の現状と課題
 
皆さん、本日はお忙しいところ、「カセ41会教育懇談会」にお集まりいただきまして、誠に有難うございます。心より御礼申し上げます。
 実は、去る1月22日(土)に行われました妻沼駅伝大会の終了後、カセ41会の皆さんと繰り出しました伊香保での懇親会の折に、私が昭和39年に妻沼東中学校の社会科教員として赴任し、皆さんを初めて担任した当時の、懐かしい「新任教員の教育論」がいろいろと出まして、その話の内容が実に面白く、一方ではこれからの学校教育の方向性を示すような示唆に富んだ内容が多かったものですから、小林芳明君に「『41会の教育懇談会』を持てないか」と、幹事役も含めてお願いしましたら、快く引き受けてくれまして、本日の懇談会の運びとなったわけです。

 
小林君、面倒な役どころを快くお引き受け下さり、本当に有難うございます。
 さて、私は中学校の教員になってから42年になります。最近は、教育講演会等で、昔の教育と今の教育を比較し、「教育論」を論ずることが多いのですが、学校教育と家庭・地域の教育力を含めた、昨今の教育に対して大きく二つの点で危機感を感じています。
 
「今の教育は良くない、そしてこれからはまだ悪くなる」という、学校教育に対する負の認識が私の問題意識なのです。

 高邁なる公徳心・「公」の精神の欠落
 
その一つは、21世紀の国家を背負う小・中学生の多数に、人としてより高邁なる「倫理観・道徳観」が希薄化し、もしくは欠落してきている、という現状に対してであります。
 
私は、埼玉県北部の保守的で静かな妻沼の街の東・西中学校で、長い間教科指導、生徒指導等に取り組んできましたが、この間、昭和55年頃からだったかなー・・、日本経済が右肩上がりで成長を続け、質的充実よりも量的拡大に日本経済全体が走っていた頃から、中学校の生徒の気質に、「ある変化」を感じておりました。「自分さえ良ければ、他者はどうでも良い」。「利他より利己」。「公より私」と言うようなエゴイズムが学級の中で顕在化してきたような気がするのです。生徒会の役員や文化祭の実行委員というような役どころに立候補したがらない、「今、自分に出来ることは何か」「公の為に、自分は何を為し得るのか」というような、人として大切な公徳心、高邁な「公」の精神が忘れ去られ、風化してしまっているのです。
 
 古来より日本では儒教の四書・五経を経典、よりどころとする道徳観がありました。ぜいたくよりは質素、怠惰よりは勤勉、奔放よりは規律、争いよりは協調
(東海旅客鉄道・葛西敬之氏)と言うような崇高な社会規範が厳然と生きていたのです。今こそ、このようなよき伝統を復活させ、古き良き日本の教育を規範とした「21世紀の教育ルネサンス」に、国民全体で取り組まなければならない時だと考えます。

 
今の学校教育に欠けているもの
 
私は、今の小・中学校教育に欠けているものは、人が、人として社会に生きてゆくために必要な諸々の基本的な価値観、倫理的・道徳的な価値観をはっきりと子供に教えていないことだと思うのです。「それは違う」「間違っている」と、学校でも、家庭でも、地域でも、大人がはっきりと子供たちに言ってないことだと考えるのです。「公」の観念を家庭教育・学校教育の中で子供たちに指導しなければならないのに、大人がここを避けてしまっていないだろうか。家庭では我が子に、学校・地域社会では時代を背負う子供たちに、それぞれの立場で発言しなければならない時なのに、大人は、何を遠慮しているのだろうか。

 
私の住んでいるスペインでは、このあたりの分担は非常に明確でありまして、自分の子供の躾については、家庭の責任で行っていますし、家庭でもあいさつや「公」の為に心を向けるような「利他」の精神は、しっかりとしつけています。「誰も見ていなくとも、神のみは見ている」という、神をよりどころとした「心の教育」がしっかりと行われていることが、スペインの社会を築き上げているのだと私は思います。

 
基礎・基本の学習を
 
二つ目は、小中学生を含めた青少年の学力低下の問題であります。
 皆さんも新聞等でご覧になり、先刻ご承知のことと思いますが、昨年末に発表された「国際学力調査」の結果を考察してみますと、日本の小中高校生の学力がかなり低下し、落ち込みが著しいのです。これは、小・中学生に、学習の基礎・基本がしっかり指導されていないからなのであります。基礎・基本とは一体何か・・。学習の基礎・基本とは「読み、書き、そろばん(算数・数学)」の能力であります。小学校時代からこの能力を繰り返し指導しなければ、さらに高度な専門的な学力は積み上げられません。「自ら学び、考える力」は、基礎・基本の積み上げの上で可能なのです。

 
また、同時期に行われた「教育」に関する世論調査でも、子どもの学力低下を不安に思う人が8割を超え、保護者の学校教育への不安感は、「授業時数の削減」50%、「教科内容の削減」36%、加えて、学力低下の原因として「教師の質の低下」を挙げている人が、41%もいるのです(平成17年2月6日付 読売新聞)。
 
このことは、多くの保護者の学校教育への不信感の表れであり、国民の声でもあります。
 
これからの小・中学校教育をどうするのかを、今、国民的レベルで論ずることが課題なのです。
 
私は、今の小中学生の学力低下の原因として、根本的には、新しい学習指導要領を挙げたい。

 皆さんご存知のように、新しい学習指導要領は、「人間性豊かな児童・生徒の育成」「自ら学び、考える力を育成する」「ゆとりのある教育活動の展開と個性を生かす教育の充実」。「各学校が創意工夫し、特色ある学校づくりを進める」をコンセプトに、平成14年度から小・中学校で全面実施されています。中学校では、総授業時数を1、050時間から980時間に、各教科の指導内容を、おおよそ2割近くも削減しているのです。指導の質と量を削減し、後退させれば、子どもたちの学力が下がるのは当たり前であります。この「自明の理」をなぜ直視できないのか、不思議です。
 
過日、私の勤務するフェリペU世大学・翻訳学部で、日本とスペイン・EU 各国の義務教育段階での「教育課程編成の原則と手順」を調べ、比較・検討してみましたが、教育課程編成の質・量(総授業日数、時数、各教科・領域の指導内容等)において、新しい学習指導要領の全面実施前(2002年4月以前)の日本の教育課程は、総合的に、スペインや他のEU 諸国よりも、はるかに優れていると思えるのです。私の学部の学生たちも、「日本の義務教育に学ぶ」ことに目を向けている学生が多かったのです。

 「総合的な学習の時間」の問題点
 
新しい学習指導要領で、さらに看過出来ないのは、いわゆる「ゆとり教育」、つまり「総合的な学習の時間」の取り扱いであります。国語、算数・数学等、教科の時数を減じて、「人間性豊かな児童生徒」を育成するために、「総合的な学習の時間」を特設して、せっかく「国際理解教育」「情報教育」「福祉教育」等に取り組んでいるのに、現場の取り組み方に問題が露呈しているのです。教師の恣意的な解釈で、貴重な「総合的な学習の時間」に、「テープを聞かせるだけの英語」や、担任がPC の操作が出来ないから、前任者からのインター・ネットを使ったリアル・タイムでの「国際理解教育の授業」を積み上げられないような「総合的な学習の時間」では、所期の目的はとても達成出来ません。「指導出来ない」から「しない」では、プロの教師は務まらない。出来ないことは、出来るように研修していただきたい。それが出来ないのなら、退場していただくしかない。企業では、21世紀の厳しい競争を勝ち抜くために、セル方式を受け入れ、厳しい研修を重ね、技術を積み上げているのですから、学校の教師もここは頑張っていただきたい。学校は、閉ざされたモノカルチャー社会ですから、教員が、なかなか指示に従わず、管理職も大変だとは思いますが、リーダーシップを発揮して、出来ない教員を、出来る教員に変えていただきたい。

 
21世紀の世界経済は、知的付加価値の高い製品を創り出し、他国とその品質の良さを競う時代です。「勝ち組」として残るためには、わが国は人的資源を育てなければ勝ち残れないのです。優れた人材を育成するための、これからの小学校・中学校教育に期待します。
 駄弁を弄して大変失礼致しました。
 本日は、「カセ41会」の皆さんに、中学校時代を振り返っていただき、大いに当時の教育を語っていただきたいと思います。



 「カセ41会教育懇談会」

 
司会 皆さん、本日はお忙しいところ、「カセ41会」の教育懇談会にご出席いただきまして有難うございます。司会の大役を仰せつかりました小林です。どうぞよろしくお願いします。
 
これから、昭和39年〜41年当時、担任の加瀬先生がドラスティックな教育で、私たち生徒一人ひとりに、数多くの思い出深い印象的な学級経営、教科指導、部活動指導等をしてくださった思い出を、大いに語っていただきたいと思います。実は、私にとりましても、その一つひとつが、ノスタルジックで且つ鮮烈な印象として今でもよみがえり、ある意味では、このことが、現在でも私の人生の指針となっているような一面も感じています。

 
そこで、本日は皆さんに当時を振り返っていただき、このことを次のように4つのカテゴリーに分けて語っていただきたいと思います。1つは、社会科の授業での思い出。2つめは、ロングホーム・ルーム(学級活動)での日々。3つめは、部(クラブ)活動指導。そして4つめは、先生の下宿での強烈な忘れられない思い出についてです。
 
先ず初めに司会者から当時の思い出を述べさせていただきます。今でも印象深く残っているのは、夏休みの宿題の「日本地図」の作製と「歴史年表」の作製です。両方ともかなりのボリュームがあり、相当苦労したことを鮮明に憶えています。また、先生は社会科(地理・歴史)のテストの成績優秀者を廊下の掲示版に張り出しました。そのことは、頑張って良い成績を取れば、自分の名前が張り出されると言うことで、私には相当の刺激となりました。
 
大島(美) 当時の事をザックバランに話をしてみれば、私から見た先生の印象は、「何だか凄い先生が来たな」と言う強い印象が有ります。しかし、話してみると面白いし、親しみを感じました。私たちの話す、その話題を逃さない所がありました。
 吉野 人は誰でも評価されたい、認められたい、と言う意識があります。誰かがそう言うかたちで評価され、結果を張り出されれば俺も、と言う気持ちになります。そのようなハングリー精神を植え付けてくれたのだと思います。
 大鷲 私は、試験結果を張り出したことについては、いい事だったと思っています。私自身、頑張って学習に取り組むきっかけになりましたから。インパクトは強烈でしたよ。


           

 
吉野 僕はいつも張り出されたいと思っていました。名前が載った生徒はそれだけ努力した訳ですから、評価されてしかるべきです。これは私の持論ですが、組織のコンセプトを、努力しない人に合わせてしまうと、組織は共同体化してしまいます。元来、企業や組織は、専門職を志向する職能集団でなければならないわけですから、努力をして頑張っている人が相応に評価される企業が健全な企業なのだし、社会でも、全く同じことが言えるのだと思います。ところが、今は、学校でも、社会でも、それに逆行するような事をしているからおかしくなる。
 司会 悪平等の弊害が、学校の随所に見られますからね。
 塚田 日本地図や歴史年表を作成した事により、全体像が見えるようになったね。
 吉野 重要な出来事は赤文字で書いたり、これはきっちり憶えようとする出来事は太文字で書いたりね、その他の事柄は細字で書いて工夫していました。出来上がった歴史年表は、まさに教材そのものでしたよ。それは、今の私のノートにも生きている。先生は、生徒をあきさせないようにする事が上手かったように思います。悪い事をした時は叱る、そのことはすぐに家庭に広がるから、先生に叱られた事は家庭で話せない。今度は親父に怒られるからね。当時は家庭と学校との連携が実に見事だったと思う。今みたいに、学校に任せきりではなかった。
 司会 先生が日本地図とか歴史年表の作製を生徒に課した目的は何だったのですか。
 加瀬 一番考えたのは、いろいろな、個性豊かな子供たちに同じ課題を与え、それぞれが、それぞれの形で仕上げることによって、達成感、成就感を味わってもらいたいという気持ちが強くあった。自己実現の場とも考えていたな。
 吉野 加瀬先生が発信されている「ウェブ・サイト(マドリッド通信)」についてみても、インターネットは10年前と比べれば、比較にならないくらいの量の情報が送受信出来るようになりました。それくらい
PC 、情報文化 は進歩しています。しかし、残念ながら多くの高齢者がそれを利用出来ないでいる。中高年を含めてPC の技術を学習出来ないでいるわけですが、中学生時代にしっかりと学習できていれば、そんなことはなくなる。私自身にこのことを重ねてみると、中1の時の日本地図、中2の夏の歴史年表をつくったことに通じてくる。その時考えたことは、「まとめる事と表現力」でありましたから。

           
  
                 
吉野晴康氏     塚田祐二氏     司会・小林芳明氏

 司会 「まとめる事と表現力」、自己実現に通じるものがありますね。
 吉野 そう言えると思います。今、私は会社でも教育訓練を実施しています。それは鍛えることに等しいと思います。鍛え方によっては間違った方向に進む事もあります。陸上競技について言えば、ただ単に走っているだけでは力は蓄積されない。学習がなければだめである。メニューに基づいて練習を積み重ねなければならない。それにより目標は達成出来るものである。そのことを中学時代の私たちで考えてみれば、日本地図の作製、歴史年表の作製は、物事の達成感の喜びを味合わせる為に、あの気が遠くなるような課題を与えてくれたのではないでしょうか。先生は、そのことを通じて物事の組み立て方とか、表現力とか、学習の大切さを学ばせようとしたのかもしれない。
 司会 あの頃は、夏休みはゆっくりと休みたい気持ちはかなりありました。この2つの宿題は精神的にも肉体的にも大変ハードでした。その辺皆さんはどのように感じていましたか、またそれがどのような事に影響を与えましたか。
 塚田 日本地図や歴史年表を作成する事により、全体像が見えるようなったね。
 吉野 当時から加瀬先生は、生徒がいいことをすれば褒め、悪い事をすれば叱る、いわゆる「信賞必罰」の教育を実践されていました。ところが今の学校教育は、生徒を「躾ける」とか「叱る」教育よりも、どちらかといえば、自由とか平等というような美名のもとに、放任の教育に偏っているように思えるのです。平等という概念が、「競争・市場の原理」を避けて通り過ぎてしまい、教育の座標軸の方向性が少しずれてしまっています。自由と放任は違いますし、義務の伴わない権利主張は、人間関係をひどく硬直化させてしまいます。このことは、受け入れ側の企業から言わせてもらえば、常識的な社会人として必要な、基礎・基本さえも身につけていない人間を学校が送り出し、雇用する企業の側で「再教育」しているという現実も知って欲しいと思います。


           

 
司会 なるほど、基礎・基本さえも身に付けていない生徒が多い。
 
吉野 そうです。今、東工業株式会社では、近隣の中学校からの職場体験学習の受け入れ先として、生徒を多数預かっていますが、生徒一人ひとりは非常に真面目で、こちらの指導を真摯に受け入れてくれています。指導すれば人は変わるのだという当たり前のことを、送り出す側もしっかりと受け止め、責任を持って教育して欲しいと思います。
 
司会 「指導すれば人は変わる」と、吉野氏が言っておられることは、多くの人が頭では理解していても、現実の問題としては、そのことを避けて通ってしまっています。今こそ、学校でも、家庭でも、また地域社会でも、教育の原点に戻る時なのかも知れませんね。
 司会 塚田君はどのように感じていたのでしょうか。
 塚田 今まで先生のいいことばかりでていますが(笑い)、授業時間は50分ですよね、その時間すべて集中しつづけることは出来ません。生徒があきてきた頃、先生は、ちょっと脱線して生徒をリラックスさせてくれた事を憶えています。
 大島(美) 先生はよく脱線していたよ。また、生徒をよくニックネームで呼んでいました。自分もミツオではなくカマキチと呼ばれていました。小林(司会者)君は、ホウメイと呼ばれていましたね。
 塚田 俺は渡船場のユーチャンと呼ばれていた。(笑い)
 司会 今、地域と教員との関わりがほとんどなくなっているようです。保護者が逆に学校・教員と対立しているように思えますが。
 大鷲 そう、そんな学校と保護者の対立の関係はよく聞くよ。加瀬先生の印象は熱血漢であった事です。今の若い先生からは、熱の入れ方が伝わってこない。加瀬先生に学校で叱られても、その「叱られた理由」が良くわかっていましたから、自分でも納得していました。今の生徒には経験出来ない事です。
 司会 なるほど、叱られた理由が良くわかっていた。これ、大事なことのような気がしますね。今は、クラスで何かがおこって、教師が叱ると、今度は親が怒ってしまう。
 大鷲 何もしない人、何も言わない人を育てるのではなく、何かをやる人、人と違った事を言う人を育てる事が重要なのではないでしょうか。先生は昔その様なイメージを持って指導に当たっていたのでしょうね。この子はここが優れている、この部分を育ててやろうというような。
 加瀬 クラスの子たちは、それぞれがいろいろな潜在能力を持っていてね、運動が良く出来る子、音楽・芸能の方面に優れた子、勉強が良く出来る子など、その子の持っている良さを認め、伸ばすことは、いつも考えていたね。
 塚田 当時は学校に活気がありましたよね。
 吉野 先生は授業中黒板に文字を書くだけでなく、よく生徒の脇を歩いていましたよね。そうすることにより生徒とのコミュニケーションを図ろうとしていたのでしょうか。
 加瀬 そう、そう・・「机間指導」ね。生徒一人ひとりの学習状況を見ることによって、それぞれの問題点を発見し、その場で個別指導が出来るんだよ。これにはかなり時間をかけたな。
 塚田 俺は、当時からあまり成長していないような気がする。中学の時に習ったことはよく憶えているが、それ以降のことについてはそうでもない。

 
ロング・ホームルーム(学級活動)について
 
司会 当時、土曜日の4時間目にロング・ホームルーム(学級活動)の時間があり、ステレオでの音楽鑑賞があった。洋楽を聴くのは珍しく、非常に印象深く、私の記憶に残っています。皆さんはどんな印象を持っていますか。
 福島 クロードチアリの「夜霧のしのび逢い」が印象に残っている。
 塚田 当時は強いカルチャー・ショクだったのかもしれない。あの頃は、どこへも行ったことがなく、何も知らない私たちにとっては、まさにそれだったのかもしれない。ナット・キング・コールの歌もよく歌ったよな。
 加瀬 あの頃、あの相当大きいステレオをどのようにして教室に運んだのだろう。忘れてしまったよ。
 大島 リヤカーで運んだのです。
 加瀬 リヤカーか・・、いや、懐かしいなー。
 福島 当時ステップも教えてもらったのを憶えています。またクリスマスの頃は黒板にホワイト・クリスマス、ジングルベルなどを書き、それを歌いました。枯葉についても、歌詞を原語で憶えていますよ。授業中の英語はほとんど覚えていないけれども、当時歌ったシャンソン等の歌詞は、いまでも原語で憶えているのだから不思議だ。おれも英語の才能があったのかもしれない(みんな笑い)。
 司会 加瀬先生は当時、先生独自の学級経営や生徒指導、部活動の指導、教科外の活動を実践されていたわけですが、他の先生から何かいわれなかったのですか。
 加瀬 いやー、いろいろ言われましたよ。
 塚田 加瀬先生の「カリスマ的な教育実践」を、理解してくれている先生はいたのですか。
 加瀬 私の実践を理解し、支援してくれている仲間は、少数だけれどもいたんだ。他の職員に足を引っ張られることの方が多かったけれどもね。そういうことは聞き流して、子どもたちのことを考えて行動していたな。

 
部活動について
 
司会 当時家の都合で部活を休む事があったのですが、その時「欠席届」を出した事を懐かしく思います。その届けも、必ず親に書いてもらわなければならなかった。本人が書けば受け付けくれなかった。

             
  


    
           大鷲 実氏    福島眞次氏     大島美津夫氏

 大島(敏)当時のことで思い出す事は、中島君のことだね。マネージャーをやっていた中島君は、脚が悪かったんだが、先生がいろんな所へ連れて行ってくれたね。2年生の志賀高原の林間学校の時、白根山の火口までおんぶしてつれてってくれた。本人は、林間学校へは「行かない」って、言ってたんだけどね。中島君は、その後とても喜んでいたことを思い出すよ。また、キャンプファイアーもやりましたね。体を墨で黒く塗り、フラダンスをして、ダンスが終って墨を洗い流すのに、木戸池へ飛び込んだことは忘れられないよ。木戸池は真っ暗で、飛び込むのは怖かったんだが、先生が先に木戸池の中に入って待っていてくれたから入れたよ。
 
福島 あの時は、本当に怖かったなー。何しろ木戸池が真っ暗なんだから。加瀬先生が担任でなかったら、あのような体験は出来なかっただろう。その様な事をしてもらったことは非常にいい思い出になっています。
 司会 当時、先生は言葉遣いに厳しかったですね。目上の人に対しては、「さん」をつけて呼びましたね。
 福島 目上の者に対する「さん」づけ、それに挨拶も厳しかったね。
 大島(美)冬のある日、部活動終了時に先輩のかけ声練習を笑った時、先生にひどく叱られたことを今でもよく憶えています。
 福島 当時先生は、「陸上日記」を毎日書くことを指導されましてね、この事は先生が今言われた「読み・書き・そろばん」の指導と共通しているのではないかな。(笑い)先生は当時から基礎・基本を大切にしていたんでしょうね。当時「陸上日記」以外は、書くことはほとんどなかったから。
 大島(敏)当時の「陸上日記」は、今でも残してありますよ。飯能ロード・レースのゼッケンも残してあるし、ユニホームも残してあるよ(皆さんすごい・・の歓声)。
 塚田 当時先生が、電車で駅伝やロード・レースの試合に連れて行ってくれたことは、非常に記憶にのこっています。大変有難い事だったと思っています。
 大島(敏)宝登山ロード・レースの写真は、思い出として残っているなー。
 大島(美)そうそう、長瀞駅前での写真は俺も持っているよ。
 福島 先生にいろんな所へ連れて行ってもらった。俺は田舎者だから、家族でそれ以外の所へは、ほとんど行かなかったから、嬉しかったよ。
 福島 高校を卒業してからも、走る時は赤のラインの入ったパンツで走っていた。先生は特に赤のラインが好きだったから、その影響を強く受けたのだろうと思う。ユニフォームについても、目標記録を達成した人とそうでない人でユニホームを変えていましたね。先生はそのことによって、「よし、俺もレギュラーのユニホームを着てみせるぞ」というような、生徒に意欲を喚起する考えだったように思います。
 吉野 当時、福島君は天才的な速さだったからね(笑い)。
 福島 長距離をした人は全てに先生と関わっていたように思う。俺は先生と原宿まで陸上パンツを買いに行った。
 大島(敏)当時霞が関のゴルフ場で一緒に走ったり、色々な所へ行ったなー。
 福島 試合度胸をつける為に、八木橋デパートの買い物客がいるところで、おにぎりを食べたり、「大勢に見られても恥ずかしくない様にしなさい」と言われた。今の基礎は当時に作られた様に思う。「恥ずかしい」と言うと、先生に怒られたよ。それが試合の時に生きていた。当時「大学生になったら、箱根駅伝の選手になれる素質があるぞ」と、言われて嬉しかった。

 司会 カセ
41会の駅伝について話してもらえますか。
 
大島(敏) 10年前に、息子が妻沼駅伝に出場するということで見に行ったら、先生がアンカーで走っていたので驚いたよ。雪が降った日だったな。
 
加瀬 ああ、そうだったな。当時は、小島中学校の校長をしていて、小島中チームとして出場していた。
 大島(敏)そこで塚田君に会い、駅伝に出場しようか、ということで始まった。
 福島 その後、先生がスペインに行ったこともきっかけになった。

 司会 先生の下宿先での思い出を語ってください。
 福島 当時初めて、先生の下宿でポテト・サラダと食パンにバターをつけて食べたんだ。マヨネーズも珍しかったな。
 塚田 今の時代だから何でも食べているが、当時の妻沼ではスーパー・マーケットも何もない時代だったからね。
 福島 チーズなどもね。あれを食べると、記録が良くなると言うんで・・、先生の下宿でいろいろと珍しいものを食べさせてもらった。
 大島(敏)あの頃先生の下宿に長距離のメンバーが集まり、6畳の部屋で、ミニ合宿をやりましたね。
 福島 6畳の部屋に何人寝たのだろう・・押入の上・下に4人、6畳の部屋に6人、台所に2人寝た。6畳一間の下宿で12人も寝たんだ。
 大島(敏)布団はどうしたのだろう。
 福島 布団なんかないよ、みんな雑魚寝でごろごろ寝たのだから。

               
       
 
             41会会長・大島敏男氏    41会幹事長・小林芳明氏

  塚田 俺は、勉強を教えてもらったことを憶えているよ。
 吉野 先生の下宿でどのようなトレーニングをしていたのだろう。
 福島 土曜から日曜にかけて練習したよ。朝10キロくらい走った。そのあいだ先生がカレー・ライスを作ってくれていた。じゃがいも、人参、野菜等は家から持って行った記憶がある。
 大島(美)先生のところに泊まりに行って、風呂に連れていってもらったり、アイスクリームをごちそうになった事を憶えている。
 
司会 当時皆さんはどうして陸上競技部を選んだのですか。
 
大島(敏)当時は陸上競技につて何の知識もなく、ただ駆けっこでもすればいいのだろうという気持ちだった。それでも辞めればしごかれるので続けた。なかば強制的だったよ(笑い)。
 福島 当時はろくなランニングのシューズもなく、いまでも初めて買ったシューズは何となく憶えている。ゴム底だった様な気がする。先生から「タイガーのシューズを買え」といわれ、親に買ってもらった記憶があるよ。
 司会 当時の親は、その様なことをどのように見ていたのでしょうか。
 福島 俺の親は喜んでいたよ。
 吉野 心配はしていなかった。
 大島(敏)家に帰って先生に叱られたといえば、よけい親に叱られたもんだ。
 福島 俺はそのことを言えば、さらに親に怒られる事が分かっていたから言わなかったよ。
 司会 先生の下宿での思い出は、他に何だろう。
 吉野 3年の時に勉強を教えてもらったな。受験勉強だよ。
 塚田 長距離の生徒が多かった。
 吉野 先生は、「成績が下がったら試合に出さない」と、よく言っていたから。
 塚田 文武両道を目指していたのだね。
 福島 1,2年の時も勉強教えてもらったよ。先生だけでなく、先生のお姉さん、弟さんにも教えてもらった。
 塚田 中学生の頃は、将来は教師になりたいと思いながら夢中で練習に励んでいた。そんな気持ちで先生について行ったのかもしれない。
 大島(敏)あの当時は、先生に叱られるという恐怖感からの方が強かったような気がする。
 福島 「学校が荒れる」と、いわれているが、当時では考えられなかった。
 塚田 「いじめ」は、昔もあったのかもしれないが。
 大鷲 今は悪質だよね。
 福島 先生は「勝負は勝たなければならない」と、よく言っていたが、力のある選手だけでなく全員に目をかけていた。合宿でも全員参加していた。
 塚田 その時代に戻りたい?
 福島 戻りたいね。
 福島 出会いにはその時が必要になる。若すぎてもだめだし、年が上でもだめだ。小学高学年から中学生ごろが一番多感なころだと思う。もし教師になるのであれば、中学校の教師が面白いのかもしれない。
 大鷲 そう思う。
 福島 生徒と関わってくれる人は印象深く、生徒にとっても嬉しい。警察でも柔剣道を教える人は、土曜、日曜を犠牲にして子供と関わっている。それって人生にとっては「徳の心」なのかもしれない。人生のプラスになると思う。今の教師は、生徒とあまりかかわらなくなってしまったような気がする。
 福島 大学時代に培った事を自分の子供に教えられないような熱意のない先生は退場してもらうしかない。躾は家庭でやれというが、一面では学校の躾も大事だと思う。
 大鷲 中学校は予備校ではないのだから、色々な指導が出来なければならない。ただ勉強を教えるだけではだめだ。自らの後姿で教育を語れるような幅広い人間性が求められる。
 
大島(美)子供の興味と関心を大事にしてもらいたい。

 
司会 本日はいろいろと懐かしいお話を有難うございます。時間も5時を廻っておりますので、この辺で「カセ41会教育懇談会」を閉じさせていただきます。加瀬先生、お忙しいところ有難うございました。これからもご健康に留意され、益々のご活躍を期待しております。
                           熊谷市立三尻中学校への「出前授業」実践例

 

                                                                             

                                               自叙伝 ― 私の駅伝人生半生記 −
                                                                                         加瀬 忠

   B−29の焼夷弾攻撃で焼かれた銚子の街 
 空襲警報のサイレンが鳴り響き、防空壕から薄暮の通りへ出て東の空を見上げると、その光景は、米空軍の焼夷弾攻撃で真っ赤に燃え上がった銚子の街の無残な姿であった。銚子の市街地がB-29の焼夷弾による集中攻撃を受けたのだ。
 サイレンがけたたましく鳴ると、間もなく丘の上の椎柴無線局の彼方から、グラマン戦闘機の編隊が轟音と共に上空を通り過ぎ、それまで編隊を組んでいた戦闘機は、反転して隊列から離れ、それぞれが機銃掃射を繰り返して容赦なく襲い掛かるのだった。
 攻撃目標を発見したグラマン戦闘機は、急降下しながら何回も機銃掃射を繰り返す。グラマン戦闘機の風防グラスは、透明な窓だったので、パイロットの顔の表情が手に取るように分かった。先遣部隊のグラマン戦闘機の機銃掃射が終わると、今度はB−29爆撃機の焼夷弾による爆撃が繰り返された。
 B−29爆撃機は、プロペラが4基ついていて、焼夷弾を多数搭載していた。銚子の観音様周辺へ投下された焼夷弾は、大きな爆弾で、銚子駅から魚市場近くに多数投下された。焼夷弾は、ヒューッと花火のように落下し、銚子の中心街を焼き尽くした。焼夷弾は、日本の平屋の木造家屋を標的にして開発された米空軍の特別な爆弾だった。
 B-29の空襲が激しくなると、隣組で協力して家の地下や前の川の土手際に穴を掘り、家族皆が逃げ込める防空壕を掘った。空襲警報が発令され、配属将校の兵隊から「一刻も早く非難せよ」と命令口調で指示が出て、これに従わなければ大変な事になるので、家族の者は、防空壕へ一目散に走って逃げた。
 空襲警報が発令されると、各家庭では、40ワットの裸電球を手拭いで覆い、室内を暗くするのだが、時に裸電球が過熱して手拭いを焦がしてしまったり、電圧が急に下がってソケットの二股の2燭の電球のような明るさになったりしながら、空襲警報解除の指令を待つのだった。

  グラマン戦闘機の機銃掃射

  第2次大戦中の1、945年7月19日から20日にかけて、銚子の街は、B−29の焼夷弾爆撃によって焼きつくされたのだ。銚子の中心街から10キロ近く離れた成田線の椎柴駅付近からも真っ赤に燃えた無残な夜の空を見上げることが出来た。
 成田線椎柴駅のあたりは、B-29の焼夷弾爆撃よりも、グラマン戦闘機の機銃掃射で良く狙われた。
 空襲警報のサイレンが鳴り響くと、グラマン戦闘機の大編隊が轟音と共に上空から急降下し、機銃掃射を繰り返すのだった。
 5歳になったばかりの私は、まだグラマン戦闘機の機銃掃射の怖さを理解できずに、防空壕を抜け出し、戦闘機の方向へ駈け出して行った。すかさずグラマン戦闘機の一機が機銃で狙ってきた。その瞬間、防空壕から母親が飛び出してきて、私に覆いかぶさった。戦闘機の機銃掃射は、私とその上に覆いかぶさった母親をかすめて数メートル先に命中した。
  グラマン戦闘機は、反転すると再び私と母親の上空を通過したが、再度機銃掃射はしなかった。グラマン戦闘機の機銃掃射は、ダダ、ダダ、ダダッと、間隔をおいて撃ってくる。その間隔の間に銃撃されなければ、生き延びることが出来るが、命中すれば即死だったので、私は、運よく生き延びることが出来たのだった。
  あの時、グラマン戦闘機のパイロットは、至近距離にいた私と母親をなぜ再び機銃掃射して自分自身の手柄にしなかったのだろうか。何か、瞬時にパイロット自身の中で思いが駆け巡ったのだろうか。空恐ろしいあの瞬間だった。5歳の私は、あの時のパイロットの顔を今でもはっきりと覚えている。パイロットはアメリカへ帰ってどのような暮らしをしているのだろうか。
 夜は、敵機から家屋敷を守る為に、灯火管制で灯りが外へ漏れないようにした。空襲警報が出ない時は、40ワットの裸電燈をつけても良かったのだが、電圧が突然下がったり、停電になったりして家の中はいつも暗かったが、何も無い防空壕で過ごすよりは良かった。
 戦時中の思い出は、空腹の毎日だったことしか思い出せない。
  野尻の町内には「船権」と言う造船所があって、大きな船を造っていた。戦争が終わって間もなく、船権へ進駐軍の兵士が来たことがあった。私たちは、米軍の兵士が珍しくて、産土様の樟の木の陰からこっそりと覗いて見ていたのだが、兵士が手招きをして私たちを呼び寄せた。私たちは、お互いに顔を見合わせて凍り付いてしまった。兵士はなおも繰り返し手招きして私たちを呼び寄せた。その場を逃げ出すことが出来ず、恐る恐る兵士に近づいた。兵士は「ハロー、ハロー!」と言って、私たちにチョコレートとキャラメルをくれた。終戦直後のことですから、甘いものといえば、めったに食べられない森永ミルクキャラメルや、明治クリームキャラメルしか知らない私たちにとって、チョコレートを目の前にして凍り付いたまま、進駐軍兵士の善意に「サンキュー」と、いうのが精一杯だった。
  私は、アメリカ軍の兵隊さんは、あのような美味しいチョコレートやキャラメルを、日常的に前線の兵士に行き渡るほど豊かでリッチな国なのだととてもうらやましく思った。

 鰻・蜆が良く獲れた利根川下流域

 昭和20年代の後半から30年代、椎柴から下総豊里にかけての利根川では、鰻や蜆がよく獲れた。利根川下流域の漁師は、櫓のついた手漕ぎのサッパ舟で中洲まで出ると、舳先を流れに対して舟を直角にして、鰻を獲る時は鰻掻きで、蜆を掻く時は蜆掻きで川底をなぞるように掻いた。
 利根川の下流域は、流れの関係で中洲は浅くなっていたので、鰻掻きも、蜆掻きも、竿の長さはそれほど必要なかった。
 昭和20年代の利根川は、下総豊里あたりから下総橘あたりまで海水が流れ込んでいたので、ハゼ漁も盛んで、陸釣りでも沢山釣れ、甘露煮や、天ぷらにして食べていた。
 椎柴駅の近くに、「下利根漁業協同組合」があり、組合員の漁師が夕方になるといつも車座になってお茶や酒を飲んでいた。酒を飲みながら話す、潮目の話や暖流と寒流の話、利根川の上流から流れてくる植物性のプランクトンを多く含んだ河口付近に魚がたくさん集まる話など、漁師の話が面白くて、私は、漁師仲間の話に加わる事が多かった。

  針メソ・メソ釣り

 私が小さい頃は、椎柴から下総豊里にかけての利根川流域で、針メソやメソが良く釣れた。
 針メソやメソ釣りの仕掛けは、ミミズかゴカイで作る。ミミズもゴカイも釣り針でチョン掛けにするのではなく、長いタコ糸を針金に縛り付け、ミミズの口元から差し込んでぐるぐると巻き上げて小さな輪のかたまりにまとめ、1メートル程の短い竿先につるす。こうすると、ハリメソは同時に何匹も仕掛けの餌に食いつく。ミミズよりもゴカイの方がよく釣れるのだが、ゴカイはなかなか浜で掘れないので、どうしてもミミズの方が多くなってしまう。葦の群生している川岸寄りで上げ潮、引き潮の潮加減をよく見て、膝ほどの深さの時に仕掛けを上げ下げすると、針メソは面白いように仕掛けに食いついてきた。
 まわりを見渡すと、沖の方ではイナが跳ね上がり、針メソやメソが水面までくねくねと上ってきては、すぐに下がってゆく様子がよくわかった。
 準備しておいた仕掛けを再び静かにおろす。針メソやメソは、川底をはっているので、仕掛けは川底まで静かにおろし、10センチから15センチくらいの高さに上げ下げするのだ。
 メソが食いつくと、竿先がぶるぶるっと振れ、すかさず上げてウケに入れると、メソも針メソも仕掛けから離れる。
 メソはウナギに近く、体長も20センチ近くに育っているので、引きは相当強く、上げるまでに暴れて道糸はぐるぐる巻きに絡まってしまうので、始末が悪かった。ハリメソは、小一時間も釣ると、ウケの底が見えなくなるくらい良く釣れたものだ。

  ボッカ鰻

 メソ釣りに夢中になっているうちに、潮は上げ潮になってきた。こうなると、流れは早くなり、川岸へ移動しないと釣りが出来なくなってしまう。
 私は、もう一本の長い釣りざおにミミズをチョン掛けにし、浮きも少し深めにして沖へ投げた。引き潮から上げ潮に流れが変わった。流れが変わった直後は、いつも当たりがないので、竿を川岸にさし込み、川岸で馬方が蜆の入った叺を積み込む様子を見に行った。
 下利根の蜆は、蜆掻きのサッパ舟から川岸に直接集荷され、叺に入れて越後の小千谷、小出方面へ貨車で出荷された。

 「あれっ 竿が倒れて動いている」
 川岸にさしておいた竿が倒され、引っ張られているのを見て、大急ぎで竿を踏みつけ、手に持った。竿は大きくしなっているが、いつものボラのようにすぐには上がらない。両手で引っ張り上げようとするのだが、引く力の方が強い。このままでは、引き込まれてしまうので、竿先からテグスを手繰り寄せ、少しずつ手で引っ張った。この引きは、ボラやスズキではないな。仕掛けも、浮きの深さも川底に届く鰻用ではなかったので、何が釣れているのか見当がつかなかった。
 懸命にテグスを手繰り寄せるのだが、ともすると引きずられてしまいそうになる。テグスが手の平に食い込んで、痛い。右に左に大きく振られながら、少しずつ岸の方へ引っ張った。ボラやスズキがかかっていれば、ここまで引けば、獲物は跳ね上がって姿を見せるのだが、強い引きだけで全く姿を見せないところをみると、どうやらボッカ鰻がかかっているのかも知れない。
 一旦テグスを引くのをやめ、竿を踏みつけた。見えない獲物は、川底で相当暴れているようで、踏みつけている竿が何度も強く引かれた。
 それでも、そのままに竿を踏みつけていると、どうやら引く力も弱くなってきた。再び力一杯テグスを引いたが、獲物はまた暴れ始めた。まだ、相当力が残っているようだ。
 鰻もメソも、上げるのにてこずると、テグスにぐるぐる巻きに絡まってしまうので、早く上げたかった。手の平は、テグスで傷つき血が滲んできて、軍手をもって来なかったことを後悔した。「軍手があれば、もっと強く引っ張ることが出来るのに」。獲物との力比べはしばらく続いたが、獲物の姿が川面ではっきりと見えた。
 やはりボッカ鰻だった。それも相当大きいボッカ鰻だ。針は飲み込まれ、ぐるぐる巻きにテグスに絡まっている。すぐに引き上げ、テグスに絡まった胴体を解し、伸ばそうとするのだが、ボッカは自分で自分の胴体をテグスで締め付け、なかなか伸びない。
 ボッカの胴体が少し傷ついた状態で、やっと絡まったテグスから解すことが出来た。
 こんなに大きなボッカ鰻は、あまり見たことがなかった。潮が上げ潮になったので、竿を収めて歩いて家へ帰った。
 私は、得意になって今日の釣果を母に報告した。母は、ほとんど無表情でボッカ鰻を器用に持ち上げた。母は、まだ生きて動き回っているボッカ鰻の首のあたりを、中指と人差し指、薬指で挟み、まな板の上へ伸ばすと、五寸釘を打ち込んで頭を押さえ、出刃包丁で背開きに開き始めた。
 ボッカ鰻は、頭を打ちつけられているのに、くねくねと逃げ回り、胴体のあたりまで開かれても、尻尾の方はまだバタつかせていた。コンロに新聞紙で火をつけ、松葉と松の薪で燠をつくり、魚焼きでボッカ鰻を焼いた。
 利根川のボッカ鰻は、油が多いのでいつもは竹筒の中に入れて蒸して油を抜くのだが、手間がかかって面倒なので、直接炭火で焼いた。かば焼きのたれは、このあたりの家では、ヒゲタの濃い口醤油と味醂、砂糖、酒で自分の家のたれを作り、瓶に入れて「秘伝の味」を保っていた。
 たれをつけながら焼き上げたボッカ鰻は、炊きたてのご飯で食べるのが美味しいのだが、米櫃はいつも空っぽなので、そのまま食べた。ボッカ鰻のかば焼きは、皮は硬いが、身は油がのって柔らかく、この上ないごちそうだった。

  芋拾い

 野尻の集落は、利根川と下総台地に囲まれた畑作地帯で、関東ローム層が堆積して出来上がった赤土の畑は、サツマイモの紅アズマや落花生の特産地となっていた。
 椎柴無線局下の澱粉屋から坂を上りつめると、一面にサツマイモ畑が広がる。農家が畑のサツマイモを収穫してしまうと、後には小さなサツマイモが畑に転げ落ちている。その目こぼしの様な小さなサツマイモは、拾って持ち帰っても、誰も咎め立てをしない「入会権」とする地域共同体の良さが残っていた。
 野尻の台地でとれるサツマイモは「紅アズマ」や「金時」が多かったので、ふかして食べると、小さくても味は良く、母親の漬けた沢庵で食べると何よりの夕飯だった。コメがある時は、小さく刻んだ芋を炊きこんだ「芋飯」にして食べた。少しの醤油があれば、「芋飯」は、大変なご馳走だった。

  銚子6中へ入学

  銚子6中へ入学した私は、クラブ活動でバスケット・ボール部へ入部した。
  銚子市は野球が盛んな土地柄で、地域には銚子商業高校や銚子高等学校等の甲子園で活躍する強豪校があり、銚子6中でも野球部人気が高く、男の子の多くは野球部へ入部した。
  野球部は、顧問が熱心で、放課後のクラブ活動の時間も顧問と生徒が一体となって練習をしていたが、バスケット部は技術指導をしてくれる顧問がいないまま、放課後の練習を繰り返していた。
  銚子6中は、国鉄成田線の椎柴駅近くにあって、私の家から6中までは、成田線の線路を通り越して通学していたが、踏切のある通学路を通ると、遠回リになってしまうので、行き帰りにはしばしば踏切を渡らないで、線路を横切って通学したことを思い出す。駅員が近くにいても、見咎めることなく、大目に見てくれていた。
  おおらかな時代だった。

  銚子市内陸上競技大会

  銚子市では、春に市内陸上競技大会、秋には市内ロードレース大会が行われ、陸上競技部のない銚子6中は、各クラブから駆け足の速い部員が集められて大会に出場した。
  私は、1、500メートル競走と、800メートルリレーのアンカーに出場することになった。試合会場は、銚子電鉄の観音駅近くにある銚子3中だった。成田線の椎柴駅から汽車に乗って銚子市内の3中への移動は、それだけでワクワクと楽しく、嬉しくて、気持ちが舞い上がった。
   会場へ到着すると、各中学校の代表選手は、すでに到着していてグランドを走ってウオーミング・アップをしていた。陸上競技の準備運動でグランドを何周も走ることなど何も知らない私は、他校の選手の後についてがむしゃらに走ってウオーミング・アップをした。
  1、500メートル競走は、200メートルのトラックを7周半するのだ。私にとって最初の試合は、1、500メートルだったが、1、500メートルの走り方も戦術も何も分からないまま夢中で走り、後半に追い上げて5分07秒5で2位になった。優勝は、銚子1中の山口東一君だったが、陸上競技の試合は疲れるものだなと、言う印象が残った。
 私と山口君は、この後、私は東洋大学へ、山口君は中央大学に分かれて進学し、関東インター・カレッジや箱根駅伝で競う懐かしい競技仲間となった。

  銚子6中生徒会

  銚子市は、中学生の生徒会活動やJRC団の活動が活発な土地柄であった。
  中学校へ入学して、毎週校庭で行う月曜日の朝礼の時間に、司会・進行を取り仕切る生徒会長の姿に「生徒会長って、格好いいな」と、強いあこがれを持つようになっていた。
  3年生になって間もなく、恒例の生徒会役員選挙が目前に迫ってきた。生徒会役員候補は、各クラスの推薦で候補者が選ばれ、立候補の届を選挙管理委員会へ提出するシステムになっていたが、私はクラスの推薦で生徒会長に立候補した。立候補の責任者もすぐに決まり、ポスターを作って放課後の選挙運動に熱が入った。
  生徒会長には、私と野球部の樫井君の二人が立候補して選挙戦を繰り広げたが、立会演説会で述べた活動方針等が思ったよりも受け入れられ、選挙の結果、銚子6中の生徒会長に当選した。
  銚子6中では、生徒会長がJRC団の議長も兼ねることになっていたので、私は銚子6中生徒会長とJRC団の議長を兼ねて活動した。
生徒会活動は、年度当初の活動計画や予算案、交流計画の作成等が主な仕事だったが、「自分たちのことは、自分たちで行う」という民主主義のルールを学んだことは、私自身の貴重な体験となった。

  千葉県のJRCトレーニング・センター

  千葉県では、県下各中学・高校から代表が選ばれて、4泊5日の宿泊トレーニング・センターが館山市の那古船形で行われ、銚子6中代表として参加した。
  成田線の椎柴駅から列車で千葉駅まで行き、房総西線に乗り換えて那古船形駅で下車し、宿舎の那古観音様へ到着した。宿舎は、ホテルでも旅館でもない那古観音様の境内と大部屋で4日間を過ごしたのだが、夕方の食事の時間が終わるとレクリエーションやフォークダンスの指導で大層賑やかであった。
  フォークダンスの指導では、今まで経験したことのないいろいろな世界を体験出来て、椎柴の銚子6中へ戻ってからの生徒会長の仕事にも熱が入った。
  トレーニング・センターでは、自由、平等、博愛等々「民主主義」の基本を学習した。何よりも、選択の自由を学び、身につけ、私自身の人生の指針となった。

  産土様の祇園会

 野尻の八坂神社の祇園祭りで担ぐお神輿を囃す、囃し方の白装束姿にあこがれ、私は、一度でいいから白装束で大太鼓を叩きたかったのだがそれは叶わなかった。
  椎柴の村では、集落ごとに神輿を持ち、夏の祇園祭りでは集落を挙げて祭りを楽しんだ。宵宮の頃には、東京へ出ている近所の兄ちゃんたちも格好良い白いスーツを着こなしてそれぞれ帰省し、それは賑やかであった。
 産土様でもみ合った神輿は、駅前の野尻から上宿の東光寺に向けてにぎやかに移動する。町内の各家々では、縁台を出して氷水等を振る舞ってくれるのだが、集落の旧家では、麦茶に砂糖を入れ甘くして出してくれる。砂糖は貴重で、普段は砂糖などを使うことはめったになかったので、砂糖で甘くした麦茶は、この上もないもてなしだった。
 大太鼓、小太鼓、鉦、横笛等は、部落の当番がそれぞれ得意とする楽器が決まっており、毎年同じ兄ちゃんたちが担当し、それがまた大層格好良かった。野尻の神輿は大きくて重いので、大太鼓、小太鼓に合わせて揺れる姿が絵になっていた。

  銚子高校陸上競技部

  中学校では、バスケット・ボール・クラブで3年間過ごし、銚子高校では「足が速い」と、皆にすすめられて陸上競技部へ入った。銚子市内では、駅伝も野球も銚子商業高校が強く、銚子高校はラグビー部と柔道部が伝統的に強かった。
  高校1年時の大会で記憶に残っている記録は、千葉県高校駅伝のアンカーで稲毛海岸から千葉県庁前までの5キロを走り、17分05秒で前を行く2チームを抜き、駅伝の面白さを知ったことだった。
  高校1年の冬は、学校のグラウンドから屏風ヶ浦まで走り、起伏に富んだ丘を繰り返し
走りながら持久力を鍛えた。?風ヶ浦は、東洋のドーバー海峡と呼ばれ、海岸が侵食されて自然に形成された高さが40〜50メートル、飯岡海岸の刑部岬まで約10キロ続く絶壁が印象的だった。
  銚子高校は、伝統的に中・長距離が強く、先輩の渡辺さんや宮内さんが千葉県大会で活躍しており、私が高校2年になった春の大会が近付くと、800メートルと1、500メートルに出場するように顧問から言われ、400メートルを64秒前後で走るインターバル練習を繰り返した。64秒でのペースでそのまま800メートルを走れば2分8秒の記録が出るから、千葉県大会でも入賞出来るかもしれないと、上級生から背中を押され、自分もその気になって放課後の練習に取り組んだ。
  春の千葉県大会に出場するためには、東総地区のブロック大会で6位までに入賞しなければ出場資格がない。東総ブロックには、銚子商業高校、八日市場の匝瑳高校、佐原の佐原一高等に強豪がいて、6位入賞の為には手を抜けなかった。800メートル、1、500メートルには、銚子商業高校の山口東一君も出場するので、山口君を目標にしたのだが、800メートルは2分09秒5で、1、500メートルは4分28秒3で両種目とも2位となり、千葉県大会への出場権を獲得した。
  千葉県大会では、砲丸投げの糸川照雄先輩を中心に銚子高校は、総合優勝を狙える位置にいたので、私も800メートル、1500メートルの他に専門外の800メートル・リレーのアンカーにも出場した。
  千葉県大会は、千葉市の県営陸上競技場で行われるので、大会前日から千葉市内の旅館へ泊って準備をした。宿の旅館では、陸上部の先輩と後輩が一緒の大部屋で過ごすのだが、皆でワイワイと話をする非日常的なその時間が楽しく、夕食のすき焼き鍋などは、肉料理などめったに食べたことがない私にとって、この上ないご馳走で、ご飯を大盛にして食べ、残った汁をご飯にかけて食べた。玉葱、糸こんにゃくが甘辛い醤油味で仕上げてあるすき焼きの美味しさは格別だった。
  競技大会初日は、1、500メートルの予選と決勝だった。レースの作戦も何もわからなく、ただスパイクを履いて走る中距離走が物珍しくて、他校の強豪選手がスパイクの上から白い包帯を巻いて準備するのを見て、それがなぜなのか理由もわからずに自分も巻いた。ズック靴ではなく、スパイクを履いて走るのは初めてだったので、フォームもわからずに、しかも短距離用の針の長いスパイクを部室から探して持ってきたのを履いた。針の長さは1.5センチくらいあったように記憶しているが、中長距離用の針の短いスパイクがなかったので、短距離用のスパイクで走った。
  決勝のスタート・ラインには、成田高校や長生一高、船橋高校等の強豪校の選手が伝統校のユニフォームでずらりと並んでいた。思わず武者震いをしたが、スタートと同時に夢中で飛び出し走っていると、いつの間にか上位争いに加わっていた。最後の鐘が鳴って先頭争いに加わり、ホーム・ストレートの本部前で2位まで上がって、そのままゴールイン。千葉県大会1、500メートルでの準優勝に信じられない思いだった。
 銚子高校では、800メートルと1、500メートルの中距離を走っていたが、自分としては5、000メートルの長距離を走りたかった。しかし、チームの事情で中距離を走ったことにより、結果的にスピード持久力が養われたのかもしれない。

 東洋大学スポーツ特待生

 銚子高校の3年生になると、クラスの同級生は、自分の志望する大学を決めて、皆受験勉強に取り組んでいた。
しかし、私は受験勉強に集中出来なかった。大学へ進んでも、私の家の経済状態では、多額の入学金や授業料を払える経済状態ではないことがよくわかっていたし、そのような中での進路の選択肢は限られていた。
 私は、中学校時代から将来への希望があり、公立中学校の社会科教員になること、そして箱根駅伝の選手になることへの思いが強くなっていた。
 公立中学校の教員になることと、箱根駅伝の選手になることとは、両立できるのか、随分考え、悩んだ末に両方に挑戦することで考えがまとまった。
  このような状況の中で、東洋大学には、「スポーツ特待生」と言う制度があり、各都道府県のチャンピオンは、この制度に出願出来ると言うことを知った。スポーツ特待生に合格すれば、授業料や入学金等が全て免除され、4年間勉強と運動に専念出来ると言う制度となっていた。
  たまたま、一学年上に成田高校出身の先輩で、千葉県大会で活躍していた竹内照好さんや福島県磐城出身の宍戸英顕さんがおり、この二人の先輩の説明で、スポーツ特待生で東洋大学を受験することが出来、無事に合格することが出来た。
  東洋大学陸上部は、仏教学部哲学科に在籍するお寺の子弟が多く、話題は自然に寺のことや、高野山、比叡山での修行の話となることが多かった。
  東洋大学陸上部の合宿所は、板橋の志村蓮根町にあり、白山にある経済学部までは、志村坂下の停留所から都電に乗り、巣鴨駅を通って白山上まで通った。
  2階建ての合宿所の生活は、上級生と下級生が一部屋で、私の部屋は、竹内さん、宍戸さんの3人だった。
 合宿所へ入所した初日の夕方、銭湯へ出かけた帰りに、先輩の宍戸さんが近所の店で、目刺しを買ってきて火鉢で焼き、皆で食べた。合宿所には風呂がなかったので、歩いて近くの銭湯へ行き、風呂へ入るのだが、入浴料金が17円で、頭を洗うと他に10円を払うシステムになっていたので、そうたびたび風呂へ入ることもままならず、先輩の宍戸さんなどは、距離を踏んだ日の夕方は、入浴代わりに水道の水を頭からかぶっていた。

  青東駅伝

  青東駅伝とは、青森から東京まで、1週間かけてタスキ・リレーする都道県対抗駅伝のことで、駅伝の記事は、読売新聞等で大きく報道されるので、私も、銚子高校在学時代から憧れの駅伝であった。青東駅伝の選手選考は、都道県ごとに行われ、千葉県選手団は、千葉県営陸上競技場発着の10マイルと20キロのコースで行われ、私は、10マイルコースで優勝し、青東駅伝千葉県代表選手として選ばれた。あの時の嬉しさは今でも忘れられない。
  千葉県チームは、順大の小出義雄さんや中大の山口東一君等の活躍で、東京都、神奈川県, 埼玉県と共に上位争いを繰り広げ、思い出に残るレースが多かった。
 青東駅伝の結団式の後、千葉市内の中華レストランで食事をした折、椎柴の田舎育ちの私は「餃子」を知らず、食べ方もわからずに「これを食べると力がつく」と言われ、本当にそう思って生まれて初めて餃子を食べた。
 醤油、酢、ラー油で自分好みの味にととのえ、出来上がった餃子をいただいた。餃子の味は、辛いだけでまったくわからずに一皿食べ「いろいろな料理があるものだ」と思ったが、今でも青東駅伝のスクラップ記事を見るたびに思い出す。

  箱根駅伝「東洋大学」のレギュラーとなる

  東洋大学へ入学してしばらくは、志村蓮根町の合宿寮の近くの新河岸川の土手で距離を踏んだ。800メートルと1、500メートルの選手が、マラソン選手のようにひたすら長い距離を走った。宍戸さんや竹内さんは、志村蓮根町から巣鴨を経由して大学までの距離を走り、あるいは新河岸川の土手沿いを練習コースにしていた。
  東洋大学の選手は、伝統的にトラックよりもロードに強い選手が多く、中距離出身の私は、この練習環境の違いに戸惑ったが、間もなくロードの距離走に慣れた。
  12月16日は、待ちに待った東京〜箱根間往復関東大学対抗駅伝1次エントリー16名の発表の日だ。朝から一日中落ち着かずに過ごしていると、夕食後に集合の号令がかかった。長距離部員全員が食堂大広間に集められ、1次エントリー発表の瞬間を待った。日ごろからトレーニングで競っている同級生も、上級生もの日はライバルだ。皆、口数も少なく緊張した面持ちで発表を待った。
 監督から順番に名前が読み上げられ、8番目に私が呼ばれて、前に出て整列した。1次エントリー16人のメンバーに入ったのだ。
 1次エントリーに選ばれた16人のメンバーは、12月下旬に箱根湯本で合宿をして最終調整に入る。この時期になると、距離を踏んで追い込むようなトレーニングはなく、体調を自己管理しつつ、レースに合わせて身体に刺激を与える練習が1週間続く。
 箱根駅伝当日に体調を合わせるためには、この1週間の調整がうまく出来るかどうかにかかっているのだ。心と身体のピークを1月2、3日に合わせることが出来る精神力の強さが求められる。東洋大学は、レースの4日前に刺激を入れるトレーニングを組む伝統がある。トレーニングの場所を箱根湯本から小田原の城山陸上競技場に移してレースのスピードに近い刺激をそれぞれの距離で入れるのだ。
 ゆっくりとジョッキングをして身体をほぐし、入念な準備運動の後、100メートルの距離を3〜4本かなりのスピードで流す。この後1,000メートルをほとんどレースのスピードで走り身体に刺激を入れ、心身ともに仕上げる。
 この時、箱根駅伝を間近に控えて、調整がうまく出来ていない選手は、体調を崩しているので、切れのない重い走りになってしまう。29日の最終エントリーの14名を選ぶ監督の目を意識しながら、自分でも納得のいく走りを作り上げなければならない。

  鉄紺ユニフォームの授与式

 12月29日は、トレーニング終了後に最終エントリーの発表がある。
 宿舎のロビーに集合がかかり、1区から順番に名前が呼ばれ、走る区間順に並び、箱根駅伝選手用ユニフォームとゼッケン、真綿、ネルの布を受け取るのだが、8番目に私が呼ばれ、東洋大学箱根駅伝レギュラー用のユニフォームとゼッケンを受け取った。8番目に呼ばれたということは、8区を走ることになる。箱根駅伝のルールで、区間登録をした選手は、区間変更が出来ない。補欠の選手の変更も4人までと決まっているので、もうよほどのことがない限り、8区を走ることになる。箱根駅伝に憧れて東洋大学に入学し、2年目で東洋大学のレギュラーのユニフォームを手にした嬉しさと感激で胸が一杯だった。
  第38回箱根駅伝に臨む心構えと、コンディションの最終調整の訓示を部長、監督から受け、部屋に戻ってユニフォームを着てみた。身体全体が何となく軽く、ふわふわした感じで、しばらくそのまま過ごした。
  ゼッケンは、自分で縫い付ける。ゼッケンの裏側には、真綿とネルの布を入れるのだが、私の走る8区は、湘南海岸を10時過ぎに走ることになる。レース後半の浜須賀交差点から藤沢橋にかけては気温の上昇が予想されるので、付き添いの者と相談し、自分の判断で、
ネルの布だけ縫い付けた。
  暮れの30日から正月2,3日までの数日間は、疲労を抜き、気力と体力を充実させる時だ。食事には特に気を使った。炭水化物をやや多目にとり、身体中にエネルギーをためることに努力する。主食はご飯を2杯食べ、餅も1個味噌汁に入れて食べた。この食事は、小出義雄さんの持論で、レース当日の食事はこのメニューが良いと、青東駅伝の折りにいつも話題になっていた。この期間は、神経が昂っているから、ちょっとしたことで体調を崩してしまう。腹痛、下痢、発熱には特に注意した。

  箱根駅伝

  1月3日の朝は、4時に目が覚めた。前日は早めに床に就いたのだが、駅伝に対する気持ちの昂りでなかなか寝付けず、朝を迎えた。すぐにトレーニングシャツに着替え、ウインド・ブレーカー用のアノラックを着込んでウオームアップに出かけた。付き添いの者と一緒だ。
  暗闇の中をゆっくりとジョッキングをして湘南の砂浜へ出た。夜明けの袖ヶ浜の砂浜は、波の音が、ザザーッと心地よい。体操をして付き添いの者と軽い冗談を言いながら、今日の調子の自己診断をした。足腰の痛みはなし、体調の変化もなし。よし、調子いいぞ、と自分に言い聞かせた。    湘南の防砂林は、まだ私の身の丈ぐらいで、静かな砂浜は、背伸びをすると遠くを見渡すことが出来た。
  私の前の区間7区を走る梅沢定男先輩は、逗子開成高校出身だから、生まれ育った地元のコースを走るわけで、感慨深いだろうな。
  私は、はやる気持ちを抑え、宿舎へ戻って「ご飯と味噌汁、漬物、ハム付きの目玉焼き2個」の朝食をとって一休みした。自分の走る時間を逆算してユニフォームを整え、一休みして平塚中継所へ向かった。湘南海岸の8区平塚中継所付近は、多くの駅伝ファンや各大学の応援団で大層賑やかだった。
  平塚中継所へ到着して、ふと小田原方面を見ると、国道の後方に富士山が大きく見えた。はやる心を落ちつかせようと、富士山に向かって静かに祈る気持ちを伝えた。
 中継地点で第1コールを済ませ、早朝に続いて2度目のアップに出た。
  ジョッギングの際の着地がフワフワとしているようだと力が発揮出来ない。経験的にこのことはわかっているから、「調子はどうなのだろう」と、自分自身に問いかけ、8区最大の難所である「遊行寺の坂を無事に上り切れますように」と繰り返し自分に言い聞かせた。
  2回目のアップが終了し、レース用のユニフォームに着替えた。この時、腹筋部と大腿筋、腓腹筋にワセリンを塗り込み、再度心と身体の準備をし、気持ちを駅伝モードに切り換えた。
  大勢の箱根駅伝ファンの見つめる中継地点で、私は、更に流しを4〜5本繰り返した。特に最後の流しは、意識的にスピードを上げた。大学の関係者やファンの見つめる中、気持ちが昂ったあの体験は忘れられない。
 中継所の応援団がざわざわと賑やかになった。関東学連の先導車に先導されて白いユニフォームの胸に赤いCのマークも鮮やかな中央大学が先頭でやってきた。続いて明治大学、日体大、専修大、日大。コースに散っている部員から「東洋大学は、早稲田大学と7位争いで競っている」との情報が入った。
  7区走者の梅沢先輩の姿が見えた。私は、「梅沢先輩、梅沢センパーイ、ラスト、ラスト!」と、両手をかざし大きな声で叫んだ。梅沢先輩は、全身汗びっしょりで、懸命に腕を大きく振って歯を食いしばりタスキをかざし、鉄紺の伝統の東洋大学のタスキを梅沢先輩から受け継いだ。鉄紺のタスキには、前走者の汗が染みこんでおり、皆の思いが伝わって来た。
 タスキを左肩から右わきの下で固定し、突っ込みすぎないようにペースをやや抑え気味に走り始めた。駅伝コースは、左側を走るルールなので、大勢の駅伝ファンの声援に押されて徐々にペースを上げた。「よし、いいぞ、加瀬。その調子」監督からの指示も、冷静に伝わって来たので、右手を挙げて伴走のジープに合図を送った。
  正月の国民的行事である箱根駅伝を「今、自分が走っているのだ」と、思いながら前を行く専修大、日大を追った。
  タスキを受け継いでから花水川を渡り、数キロは、沿道の声援と伴走車の指示で舞い上がっていた気持ちも収まり、3キロ地点の湘南大橋手前で「加瀬、いい感じだぞ。そうそう、よーし」とジープの監督から大きな声がかかった。そして「前は大分詰まっているぞ」と、一番知りたい情報を伝えてくれた。
  湘南大橋出口から浜須賀の交差点までの5キロは、平坦でまっすぐな道が続く。ここでは、前のチームと後ろのチームの伴走車や選手の姿を確認する事が出来るが、8区ランナーにとっては、目標となる大きな建物や横断歩道橋がない、ただひたすら延々と続く平坦な道を走る難しいコースだ。
  コース右手に広がる単調で広大な湘南の海岸は、アメリカの西海岸とよく似た景観だ。箱根駅伝前の合宿で、平塚の袖ヶ浜海岸の砂浜でダッシュを繰り返しながら、アメリカ西海岸の砂浜と重ねていた。
  湘南の海を右手にしながら走っていると、東洋大学の応援団員の激励の声援と大太鼓の力強い音が聞こえ、気合が入った。
  湘南の海沿いを、浜須賀の交差点で左に進路をとり、右手前方に江の島を見ながら藤沢橋の急な登り下りを「頑張れ」の声援を受け一気に走り抜け、8区最大の難所である遊行寺の坂に差しかかった。8区最大の難所である遊行寺の坂は、高低差34メートル、730メートル続く上り坂、「よし、ここで頑張るのだ」、と自分に何度も言い聞かせ、前傾姿勢を保ちながら腕を振った。
  坂の途中にある、一遍上人が開いた時宗の総本山である遊行寺を左手に見ながら、伴走車の指示に従って駆け上がろうとするのだが、この坂の攻略は、なかなか難しい。何度もレース・コースで試走を重ね、構想は出来上がっていても、駅伝当日は足が思うように動いてくれない。16.3キロ地点の遊行寺坂上交差点の手前では、まだ辛うじて足も少し残っており、最後の力を振り絞ることが出来たが、ロング・スパートの原宿交差点から残り1キロの走りで、腕と肘が両脇から離れてしまい、最後のもう一押しが出来なかったのが悔やまれる。
  顎が上がったまま9区の中継地点まではもうひと頑張りだ。
  9区中継地点の古谷商事前で待つ福田先輩の姿が大きく見えて来た。鉄紺のタスキを肩から外し、左右に大きく広げてもう一度スパート。「加瀬、ご苦労さん」と大きな声をかけてくれた福田先輩にやっとタスキを渡した。
  8区を1時間9分44秒、レース・コースの記録とほぼ同じ、区間7位の記録でタスキを福田先輩に渡し、憧れの箱根駅伝を走り終えた。

  公立中学校の社会科教員となる

  学生時代は、憧れの箱根駅伝に打ち込んだトレーニングの日々であった。
  関東の大学では最も大きな大会である、関東インター・カレッジに出場し、1、500メートル競走で5位に入賞、全日本インター・カレッジにまで駒を進めることが出来た。
  憧れの箱根駅伝大会では、鉄紺のユニフォームを身に着け、選手として出場することが出来た。
  しかし、その後の進路をどのように選択するのか、実業団で陸上競技を続けるか、高校時代からの目標であった公立中学校の社会科教員になるのか、セカンド・キャリアの描き方をどうしてもうまく見つけることが出来なく、不安でならなかった。
  私の同期は、当然のように八幡製鉄やリッカーミシン、東京急行電鉄等の実業団の強豪チームに所属して陸上競技を継続する道を選択した。しかし、私は最終的には公立中学校の社会科教員となった。
  私が中学校の教員となって間もなく、昭和42年に埼玉国体が上尾陸上競技場で行われたが、競技生活の第一線を退いた年だったので、今度は選手としてではなく、競技役員として競技の運営に加わった。
  中学校の社会科教員となって驚いたことは、教科指導の他に生徒指導、進路指導、部活動指導等々と、何と多忙な毎日だったことか、と思い出す。給食費の徴収等は、生徒が直接担任のところへ持ってくるものだから、その管理までしなければならなかった。教育の炬火は限りなく高く、公立中学校の教員は、何でも出来なければ務まらないなと、つくづく思った。
  しかし、クラブ活動等の生徒及び保護者との連携においては、赤城山の大沼湖畔や千葉県銚子の君ヶ浜の海辺で合宿訓練をし、銚子電鉄に乗って海辺の私の家で寝泊まりをするなど、常に連携を保ちつつ、充実した毎日だったなと、思い出される。
  振り返ると、中学校の社会科教員となって日本の公立中学校で勤務したのが21年、その後埼玉県教育局の管理主事として8年、文部省の派遣教員としてマドリッド日本人学校校長及び補習授業校校長、そして最後にスペイン国立フェリペ2世大学翻訳学部での教職生活を終えて帰国した。

マドリッド日本人学校派遣教員

  平成6年3月31日、文部省から待ちに待ったマドリッド日本人学校派遣の辞令交付を受け、憧れのマドリッド日本人学校へ赴任した。公立中学校の教員になってから指折り数えてこの日を待ったのだった。
  公立中学校で社会科を教え、生徒指導、部活動では陸上競技部の指導を担当しながら、バタバタと派遣準備をし、航空便でスペインへ送る荷物を整えた。
  地理の授業では、統合前のEU のことなどを中学生に教えていたが、自分が実際に赴任し、生活をするとなると、わからないことの方が多く不安な気持ちになったが、スペイン大使館の丁寧な指導で心構えが出来た。
  出発の朝は、成田空港で大勢の皆さんの見送りを受け、マドリッドへ向けて出発した。
  文部省の派遣での赴任となると、空港でのサービスから機内の座席もビジネスクラスに案内されて、機中でのサービスも全く違い、何だか自分が急に別の世界へ行ってしまうような妙な錯覚に戸惑った。
 成田からオランダのアムステルダム経由でスペインのマドリッドへは、約17時間かけて到着した。バラハス空港では、多数の関係の皆さんの出迎えを受けて憧れのマドリッド日本人学校への赴任が実現した。
 
 派遣教員のスペイン生活

 スペインの印象は、「情熱的なフラメンコと闘牛、そして美味しいワインとパエジャ」と、学生時代に学んだ明るいラテンの国がそこにあった。
 初めての深夜のバラハス空港で、誰も知った人がいないあの忍び寄る不安感は、忘れることが出来ない。日本の中学校でしか教職経験のない私の、スペインの地での生活は、余りにも理想と現実が乖離しているのではないのだろうか、との思いが脳裏を駆け巡った。
  「ピレネーを越えるとそこはアフリカだ」と、語られているように、マドリッドのバラハス空港へ到着した時のあの乾いた夜の街を、出迎えの車で走り、暗闇の外を眺めながら、「この国には、どんな人たちが暮らしているのだろうか」、「どのような出会いがあるのだろうか」と、しばし感慨にふけった。
 日本人学校は、文部省管轄下の学校なので、ある事柄の意思決定をする場合、すべて自分自身で取り仕切らなければならない。これは、ある面でかなり厳しい状況だったが、反面実にやりがいのある仕事だったと思っている。
 教育課程の編成にしても,財政再建にしても「よし、やろう」と考えたことが、学校の管理・運営上に、目に見える形で具現できると言うことは、実にやりがいのある仕事だった。

 魚が食べたい

 銚子・外川魚港の漁師の家で生まれ育った私は、幼少の頃より、明け方の外川の街々を、若い漁師が触れ歩く「おっつあん、凪だーよ」「おっつあん、時化だーよ」のかけ声で目を覚ました。
 当番の若い漁師が、朝早く外川の街一帯に大きな声で触れ回り、凪だと漁師が早朝から船へ集まって出漁の準備をするのだ。凪の日の漁師は、自分の持ち場で準備に大忙しだが、時化の時は出漁出来ないので、漁網や漁具の手入れ等をして終日陸で過ごすことになる。
 暮れから正月にかけては、銚子の実家へ帰って墓参りをするのだが、その折、実家では取りたての魚を料理してくれる。
 外川の港に上がるメカジキは、身が薄いピンク色で、先ず刺身で、それも腹側の部分は絶品だ。刺身の切り落としを潮汁でいただくのも海の人たちの楽しみとなっていた。
 外川港の沖合は、暖流と寒流、それに利根川から流れ出る植物性プランクトンを多く含んだ川の流れが交錯し、良い漁場となっている。暖流と寒流が混じり合う沖合を潮目と言い、漁労長はこの潮目の色で網を下すタイミングを判断する。
  今は、レーダーで魚群を探知して網を下すので、昔と漁の仕方も変わった。
 熊谷に帰って近くのマーケットでメカジキの刺身を探すのだが、なかなか見当たらない。「メカジキの刺身が食べたいな」と、いつも思っている。
 
 61年振りの銚子6中同窓会


 私は、昭和32年3月に銚子6中を卒業し、同級生はそれぞれの道を歩んだのだが、懐かしい銚子6中3年2組の同窓会の話が持ち上がり、平成30年7月26日(木)に61年振りの同窓会が横浜中華街で開かれることになった。
 銚子6中は、新制中学校となった当時は椎柴中学校と言ったが、その後、椎柴小学校と猿田小学校及び椎柴小学校長山分教場が一緒になって、銚子市立第6中学校となった。
 横浜の会場では、懐かしい幼馴染みの顔が次々と浮かんで、しばし呆然と立ちすくんだが、すぐに中学校時代の名前で呼び合い、61年前のクラスがよみがえった。
 同窓会の話題は、担任の先生が若い男の先生だったので、学活の時間にいろいろな指導を受けたことや、弁当の時間の前後には、クラス全体で合唱を楽しんだ。
 弁当の時間の思い出は、脱脂粉乳のミルクが配給され、あれを飲むのに一苦労した苦い思い出や、私の隣の席の生徒が、農家の子で、白米のご飯を弁当箱に一杯詰めてきて、うらやましく思った事などを懐かしく語り合った。
 会が盛り上がり、中締めの後で、参加者の近況報告が行われ、それぞれが中学校卒業後の自分自身の報告をした。
 帰りは、参加者全員で中華街から「港の見える丘公園」へと歩いて上り、山手十番館でコーヒーを飲み、一休みをしたのち、大佛次郎記念館から横浜港を眺めながら港の歴史に思いを馳せた。同級生の中に横浜税関に勤務していた友がいて、山下公園から横浜港を案内してくれて、氷川丸を眺めながらその長い歴史を振り返った。
 中学校時代を思い返すと、机を二人一緒に並べて勉強をしたのだが、何しろ教室一杯に生徒が溢れ、教科担任の先生の机間巡視も満足に出来ないような授業風景等も、懐かしく思い出された。
 61年ぶりの銚子6中同窓会、楽しい一日だった。