古代ポンペイの芸術

 フェリペU世大学・翻訳学部
 PROFESOR  加瀬   忠

 ― ポンペイ・レッド ―
 「2000年前、ベスビオ火山の突然の噴火で埋没したポンペイには『ポンペイ・レッド』と呼ばれる、赤を基調とした見事なビーナスの壁画の数々が残されている」。ポンペイの古代遺跡調査に向かう前に、筆者は予備知識としてはその存在を知っていました。

 
ベスビオ周遊鉄道でナポリ中央駅からポンペイに向かい、ヴィツラ・ディ・ミステリ駅で下車しました。駅前から正面入り口のマリーナ門までは歩いてほんの数分です。マリーナ門からポンペイ遺跡へ入場して、北西方向の「秘儀荘」へと歩を進め、執政官通りから一旦エルコラーノ門を出て、「秘儀荘」へ辿り着きました。

 
階段をおりて建物奥の「秘儀の間」に描かれた「ポンペイ・レッド」を基調にした「ディオニュソス秘儀の絵」や鮮やかな赤(写真)で描かれた壁画の数々を見て、筆者は絵の美しさに圧倒されました。2000年もの間、ベスビオ火山の大噴火による4メートル以上の火山灰・礫に埋もれ、風雨にさらされてもなお、この美しい色彩を失わなかったのですから、古代ポンペイの芸術家は、一体どのような絵の具を用い、どのような描き方をしていたのでしょうか。

 マリーナ門からフォロへ


           

 
マリーナ門からポンペイの町に入り、マリーナ通りをまっすぐに登ってゆくと、間もなくフォロ(写真上)にたどりつきます。このマリーナ通りは、文献によりますと、歩行者専用道路で、荷車は通ることが出来なかったのだそうです。2000年以上も前の古代ローマの時代の「歩行者天国」の発想ですから、この国の民主的な国づくりを学ぶことが出来ます。写真のフォロから北西方向に美しくそびえるのは、ベスビオ山です。


       



 
ディオニュソス(バッコス)は、ギリシャ神話に登場する酒の神ですが、古代のローマでは、ディオニュソスの神が広く人々の信仰の対象とされていました。絵は部屋に入って左壁から始まり(写真左手前)、ご覧になってわかるように、赤を背景に等身大に描かれた29人の人物が登場します。

 
秘儀荘の秘密と謎

 
ローマ帝国のポンペイ遺跡を調査していて、筆者は基本的に疑問に感じたことがあります。
 遺跡群の中でもひときわ大きく、独立した建築物と、室内のフレスコ画の大作で有名なこの「秘儀荘」が、なぜポンペイの考古学地区からかなり離れたところに建てられたのかという疑問であります。

 建物の名前がVILLA DEI  MISTERI(秘儀荘)、神秘・秘密の別荘という意味ですから、なにやら神秘的で霊妙な建物であったことは容易に想像できますが、一体何の為の建物だったのでしょうか。

 ポンペイの「考古学的都市ガイド」によりますと、秘儀荘が建てられたのが紀元前2世紀の頃であったと記録されています。この頃、ローマ帝国では信仰の対象として、国教以外のギリシャから伝来した秘教「ディオニュソス教」の崇拝・信仰は、ローマ帝国内の秩序を乱すものとして禁じられていたようですが、実際にはローマ帝国政府の監視の目が届かなかったポンペイをはじめ、イタリア南部の殖民都市では、ディオニュソス教信仰の風習がかなり残っていたものと考えられます。 「秘儀荘」の壁面に描かれているこれらの絵は、ディオニュソス教信仰の儀式の重要な場面の数々と考えることが出来ます。

 それでは、実際に筆者が部屋に入った時の様子を再現し、その解説を試みます。
 カメラはフラッシュが使えませんので、出来るだけ壁画に近づき、フラッシュなしで撮影しました。ここがヨーロッパの古代遺跡や美術館等の懐の深さでありまして、国宝以上の古代遺跡の重要な壁画を、ほんの1メートルくらいの至近距離からの撮影を許可してくれるのですから、取材をしていても気合が入ります。それでも、せっかくこれだけの至近距離からの撮影を許可してくれたのに、あの鮮やかな「ポンペイ・レッド」が再現できるか心配でしたが、アランフェスへ帰っていろいろと加工をし、工夫してみましたら、筆者のイメージする画像に仕上がりましたので満足しています。2000年前の「ポンペイ・レッド」が見事に蘇りました。

 なお、秘儀荘内部の他の部屋は、第二様式の絵画で装飾されており、厨房や浴室、ワインや食料の貯蔵庫などの部屋となっています。また、これらの部屋は、見事な柱廊で結ばれていますので、ゆっくりと時間をかければ部屋全体を見ることが出来ます。

        
 
             中庭が望める宴会場の壁に描かれていた美しい花の絵


 発掘調査の過程で、秘儀荘からは62年の大惨事で死を遂げたと思われる多数の遺体が見つかっています。このことからも、ディオニュソス教信仰が、いかに多くのポンペイ市民に浸透していたかをうかがい知ることが出来ます。

 
ポンペイ・レッドが失われなかった絵の具の秘密

 
約2000年もの間、あの美しい「ポンペイ・レッド」が失われなかった秘密は、どうやら絵の具と仕上げにあったようです。
 絵の具・・石灰とロウを加えた石鹸水に色を混ぜて絵の具を作っていた。
 仕上げ・・鉄ごて、大理石のローラーや磨き石等で描いた絵を磨いた後、最後に布でつやだしをして仕上げた。


        


 セメレとディオニュソス(写真左)とギリシャ神話に登場する酒の神・バッカス(ディオニュソス)への貴婦人の入信の儀式の壁画と考えられます。

        

       T 儀礼書の朗読の場面   U 犠牲と献酒  V、W 竪琴を奏でるシレノスと女性

 第Tの場面〜第Wの場面までの解説

 第Tの場面 ディオニュソスが「宗教儀礼書」を朗読し、それを椅子に座った女性が静かに聞いています。もう一人立っている女性は、ディオニュソスの朗読する「宗教儀礼書」を目で追っている様子がわかります。
 第Uの場面 若い女性が奉納物を運び、座っている女性は、二人の若者の手を借りて自らの汚れを清めており、犠牲と献酬の場面と考えられます。
 第Vの場面 音楽好きのシレノスがリラ(竪琴)を奏で、女性が小鹿に乳を与えている絵だと考えられています。
 第Wの場面 若い女性はおびえ、恐怖におののき、逃げ出す場面です。


        



            

 
   X サテュロスに水を飲ませるシレノス Y ディオニュソスとアリアンナ Z 鞭打ちの場面 
       [ 鞭打ちをされた者とバッカスの神の巫女


 第Xの場面から第[の場面までの解説

 第Xの場面 シレノスがサテュロスに水を飲ませ、もう一人のサテュロスは、演劇用の仮
面を支え持っています。
 第Yの場面 ディオニュソスとアリアンナの結婚の儀式の様子です。
 第Zの場面 一人の女性が布で多産のシンボルを隠し持ち、羽を生やした人物がもう一人の女性の膝にうずくまる別の女性を鞭で打っている。鞭打ちはこの儀式の重要な一部とされていました。
 第[の場面 鞭打ちをされた者と踊るバッカス神の巫女。
 第\の場面 花嫁になる女性が、儀式を受ける準備をしています。
 第]の場面 座った女性がこの儀式の一部始終を見つめている。この女性が、秘儀荘の女主人であったと考えられます。


           

 セメレの妊婦と入信の儀式。ディオニュソスの供の女マイナスが、ブドウとキヅタの葉を巻いた杖の方を向いています。この場面は、ディオニュソス(バッコス)の誕生を描いた絵だと考えられています。