マドリッド通信ー122 変貌するスペイン ― EU加盟によるスペイン経済への波及効果・その光と影 ― スペイン再訪前に調べた、ジェトロのスペイン基礎データ2,006年版によると、一人当たりのGDP等の数字が、次のように掲載されていました。 「実質GDP成長率3.9% 、名目GDP総額1兆2、305億9、032万ドル 、一人当たりのGDP(名目)が 27、903ドル 、消費者物価上昇率が3.6%」となっていたのです。ここで私が注目したのは、実質GDP成長率と一人当たりGDPの数字です。これらの数字には、その国の経済力や元気さが良く表れていることが多いのです。実際、私が、アランフェスで生活していた2、000年前後の世界国勢図会の統計数字によると、スペインの一人当たりのGDPは、14、800ドルでしたから、ここ数年で倍近くに増加しているのです。EU統合後の、スペイン経済の元気さが伝わってきます。 悠久の歴史を刻むスペイン王室のアランフェス離宮。王宮通りから騎士の家を右手に見 て、アランフェス協奏曲の舞台となった島の庭園へと続く。 今回のスペイン訪問は、成田からアムステルダム・スキポール空港経由でマドリッド・バラハス空港到着便に搭乗しました。 アムステルダム・スキポール空港でイベリア航空に乗り換えて2時間半、久し振りに訪れたマドリッドのバラハス空港はすっかり面目を一新し、新しく、大きくなっていました。かつて私たちが生活していた頃の、狭くて何となくうす暗い、それでいて喧騒に満ちたスペイン独特のあの雰囲気はなくなり、すっかり西欧風に洗練された、スマートなバラハス空港になっていたのです。スペイン再訪は、先ずこのことに驚かされましたが、この驚きは、変貌するEU統合後のスペイン・サプライズ第一ラウンドに過ぎませんでした。 EU統合前は、アムステルダム空港やパリのシャルル・ドゴール空港で、乗り継ぎのイベリア航空のカウンター近くへ移動すると、甲高い人々の話し声と搭乗前のアナウンスで列が乱れ、ゲートに群がる人々の様子でスペインを実感すると共に、実は心の中で無秩序のこの喧噪さに安心していたものでしたのに・・。 諸物価高騰 ― 忍び寄る「スタグフレーション」の影 ― チェックインしたホテルは、マドリッドの中心街に位置するスペイン広場近くのキッチン付ホテルです。翌日、さっそくホテル近くのマーケットへ食料品等の買い出しに出かけました。クリスマス休日前でしたので、マーケットは大変な混雑で、街全体の熱気がこちらにも伝わってきました。 今回のスペイン再訪の目的はいくつかありましたが、そのうちの一つが、なつかしいスペイン料理の数々を自分で作ることもテーマにしていました。キッチン付きのホテルをリクエストしたのも、そのような理由からでした。 牛肉のソロミージョ、ハモン・イベリコ、チョリソそれに主食のパンや牛乳、ビノ・ビール等を次々とショッピング・カートに入れたのですが、どれもこれも私が生活していた3年前よりも相当値上がりしているのです。スペイン人の主食のパンは35円から75円に、牛乳1.5リトルが150円から290円に、缶入りビール一缶が45円から74円といった具合です。買い物に出る前に乗った地下鉄も、バスも、そしてムセオ・デル・ハモンで食べた「メヌー・デル・ディア(日替わりランチ)」も750円から1、275円に上がっていましたので、スペインの物価全体がここ数年で、倍近くにはね上がったことになるようです。 ハモン・セラーノの専門店「ムセオ・デル・ハモン」。2階はレストランとなってお り、いつも地元の客で賑わっている。 統計数字の上からは、一人当たりの名目GDPが倍近くに上昇しているのですから、これが国民全体に平等に分配されていれば、国民生活は、さほど問題はないのでしょうが、私の親しいマドリッド在住の友人たちの話では、どうもそうではなさそうです。「パンや牛乳の値段は倍になっているのに、給料はさほど上がっていない。だから、生活を切り詰めるしかない。マドリッド市内の日本食レストランなどへは、とても行けなくなってしまった」と、嘆いているのです。私の宿泊したホテルも、スペイン在勤中に何度か宿泊したことのあるホテルなのですが、一泊70ユーロ(7、700円)から、100ユーロ(16、800円)に上がっていました。これは、30ユーロの宿泊料金そのものの上昇に加えて、為替相場の変動によるリスクが大きいのです。つまり、EU統合、ユーロ流通前の為替相場が1ユーロ110円、今回の訪問時の為替相場が1ユーロ168円(平成19年12月25日 Yahoo Japanファイナンス調べ)の数字を見てもよく分かります。 このように急激に変貌するスペイン経済の実態を見て、バブル崩壊前の日本経済を想起せざるを得ないのです。EUに統合し、ユーロが流通し始めてから、これだけ短期間で一人当たりのGDPが倍近くになり、諸物価も倍近くに上昇している社会は、国民生活と実体経済から離れたところで、数字だけが動いているような気がします。 私の親しいスペインの友人たちは、職種が高校の英語教師、ツアー・コンダクター、劇場の照明係そしてフラメンコ教師と多様なのですが、彼らの言っていることは皆「格差社会」の問題点という共通項で一致していますから、顕在化する格差問題が、もう一つのスペインである可能性を否定出来ません。 もちろんスペインは、膨大な額の観光収入(年間6、000万人前後の観光客と、500億ドル近い観光収入)があるので、単に経常収支だけの比較は出来ない現実はありますが、近い将来、インフレーションと不況が同時にやってくる、スタグフレーションの可能性が多分にあるスペイン経済を考えさせられます。 ピンチョスの昼食 マドリッドの旧市街、マヨール広場近くの「タベルナ・デ・ロス・アストゥーリアス」で昼食をとりました。この店は、このところ日本でも人気の、ピンチョスの美味しい店としてマドリッドの下町でも知られた店です。 ピンチョスとは、フランス・パンを1センチくらいに薄く切ってトマト、オリーブ・オイルをすりこみ、ハモン・セラーノ、チョリソ、ボケロネス、サーモン等をのせていただく料理です。スペイン料理は、コシード・マドリレーニョ等に代表されるように、割合と手のかかったスロー・フードが多いのですが、ピンチョスは、コシード、パエジャほど手のかからない手軽なスペイン料理です。 この店でのお勧めは、他に、ケソ・マンチェーゴ(羊の熟成チーズ)に、赤ワインのジャムをつけて食べるラ・マンチャの美味珍味があります。熟成した羊のチーズと赤ワインジャムのコンビネーションなどは、日本の食文化では考えられませんね。ところが、食べてみると実においしいのです。スペイン料理の奥深さを感じさせられる料理です。 スペイン人が好んで食べる軽食「ピンチョス(左)」。ラ・マンチャの 熟成した羊のチーズ「ケソ・マンチェーゴ」と赤ワインのジャム「メル メラーダ・デ・ビノ(右)」。 タベルナ・デ・ロス・アストゥーリアスからの帰り道、エル・マドリレーニョでコーヒーを飲みました。ここのバルも、下町では人気のバルでして、特に店の外側のタイルの絵が印象的で、ノスタルジックなスペインを感じさせてくれるバルです。 フラメンコ発表会場での出来事 スペインの親しい友人、アンヘラとその娘マリーナが「フラメンコの発表会をするので、是非見に来てくれ」と、前から誘われていました。マリーナは、私の勤務していたフェリペU世大学・翻訳学部の学生なので、どのようにフラメンコを踊るのかも、楽しみでした。 アランフェス市役所前でアンヘラと待ち合わせ、発表会場であるセセーニャ村のカサ・デ・ラ・クルトゥーラ(文化会館)へ5時に到着しました。 ところが、発表会開始の30分前だというのに、まだ舞台の準備が整っていないのです。ステージは昼の部の発表会の後片付けが済んでいません。テープや紙吹雪が舞台に散乱しており、その紙吹雪を集めては、数人の子供たちが追いかけっこをしているのです。会場は、散らかし放題で、とても発表会前の緊張感とは程遠い状況でした。 私は、このような状況で、スペインの人たち、発表会関係者や保護者は子供たちにどのように対応するのか、大変興味がありました。「会場の責任者が一喝する」のか、「親が出てきて我が子を引き戻す」のか、それとも「その他の誰かが言い聞かせる」のか、私が日本の中学校の若い教員時代でしたら、ここでは間違いなく「一喝」するでしょう。 ところが、解決は私が予想していたような方法ではなく、次のような第三の方法でした。 会場の準備であちこち飛び回っていた、フラメンコの指導者が、始めの時間に追われている忙しい時なのに、子供たちの何人かに、しゃがみ込んで静かにじっくりと時間をかけて話して聞かせ、「してはいけないこと」と「許容範囲の事柄」を理解させていたようです。 しばらくすると、駆け回っていた子供たちの「ガキ大将」と、思える子を中心にして、自分たちが散らかした紙吹雪やテープをきれいに片づけ始めたのです。さらに、様子をよく見ていると、舞台全体をきれいにして静かに自分の席に戻ったのでした。 まさに「目から鱗」であります。 児童・生徒指導は、いろいろな考え方で、いくつもの指導の仕方があり、「これが絶対だ」という方法はありませんが、このように、子供たちが納得するまで良くいい聞かせ、子供たち自身が主体的に判断し、行動させるような手法は、日本の小・中学校でも、大いに学ばなければならない指導方法かも知れない。 学校以外の、地域の文化会館での指導場面であるだけに、私には、相当なインパクトでありました。 地域社会の教育力 アンヘラがスペイン料理のコシード・マドリレーニョを作ってくれる日です。私たちは、アト―チャ駅から電車でアランフェス駅へ向かいました。 アト―チャ駅は、スペインの列車爆破テロ事件の折に、テロリストの標的になった駅ですし、その上、アランフェス行きとアルカラ・デ・エナーレス行きの出発ホーム3・4番線は、あの時に爆破された電車の到着したホームです。NHKの特派員報告では、私自身実際にアト―チャ駅及び駅の3、4番線ホームを取材し、特別番組で放送の解説をしているだけに、事件の時に爆破された電車や被害に遭った人々の悲惨な様子が脳裏をかすめ、いたたまれない複雑な思いがしました。 アト―チャ駅からアランフェス駅までは約45分。電車は、私が以前に通勤で使っていた当時の旧型の電車ではなく、すっかり新しい新型のセルカニア(近郊電車)に変わっていました。 新しいスペインの電車は、生活密着型の電車で、小さな乳幼児を乗せた乳母車や自転車、車椅子等のスペースが車内に確保されており、さらに電車の連結部分は、車椅子でもスムーズに移動できるバリア・フリーとなっているのです。大変うらやましいこの電車内の空間は、電車の構造によるものだと思われます。スペインの電車は、広軌の線路を走る鉄道であるため、車内がゆったりとして広く出来ているのです。何とも、子育てがし易い、障害者等社会的弱者の立場に立った環境を作り上げている国なのだろうと感心させられます。 スペインの列車爆破テロ事件で、標的となったアト―チャ駅。200人以上の死者を出した。 マドリッド市内の地下鉄(左)と、ゆったりとしたバリア・フリーの車内(右)。 アランフェス市役所前の約束の場所へは、マリーナが車で迎えに来てくれました。 マリーナが運転しているドイツ車は、3年前に新しく買った車ですが、走行キロ数は何とすでに20万キロを超えています。 一般的に、スペイン人の車の乗り方は、私たち日本人と基本的に異なるところがあります。走行キロ数のゼロの数が一つ多いのですね。ですから、20万キロ〜30万キロでは、彼らはまだ車を買い換えません。何しろ、マヌエルは、「面倒を見れば50万キロは大丈夫だよ」と言っていますし、事実マヌエルの車は故障もなく、時速120キロで快調に走っています。 アンヘラおばさんの作るコシード・マドリレーニョは、肉類(牛肉、豚肉、鶏肉)にチョリソ、モルシージャそれにガルバンソス(ひよこ豆)と野菜類を煮込んだ、ラ・マンチャの「お袋料理」です。アンヘラのコシード・マドリレーニョは、どうやら作り方にその秘訣があるようで、スープにとろみをつけるのにジャガイモを潰したり、ニンニクは皮をむかないでそのまま一緒に煮込んだりの工夫をしています。 出来上がったコシード・マドリレーニョは、3回に分けていただきます。プリメロ・プラト(第一の料理)は、スープに細いパスタを加えていただきます。セグンド・プラト(第二の料理)は、キャベツ、ジャガイモ等の野菜類を、そして、メイン・ディシュであるテルセロ・プラト(第三の料理)は、柔らかく煮込んだ肉類を、リオハの赤ワインと共にゆっくりといただきます。ジャガイモでとろみをつけ、チョリソ、モルシージャの出汁がよく出たスープ、スペインの固いキャベツと皮をむかないで柔らかく煮込んだニンニク、骨付きの牛・豚肉の微妙な味のハーモニーは、まさにラ・マンチャの美味珍味です。 昼食の後、セセーニャ村の教会へ。この教会では、アンヘラがボランティアで地域の子供たちに勉強を教えているのです。教会へ到着した時は、まだ神父様のお説教の最中でした。薄暗い教会では、小学生前後の子供たちが「神は家族と愛する人々を救ってくれる」「誰も見ていなくとも、神のみは見ている」と説く神父様の話を、静かに聞き入っていました。 神父様のお説教が終わると、アンヘラを始め、地域の保護者の出番です。教会の中で5〜6人のグループが車座になって、今度は多数の保護者が子供たちに神の教えを説いています。騒いだり、グループからはみ出したりする子はいません。私から見ると、実に不思議な光景です。しかし、この地域の教育力、神を拠り所とした「心の教育」が、このような形で、村の教会で厳然と行われている現実を目の当たりにして、今の日本の教育に求められているのは、学校教育の再生だけではなく、実はこのような地域社会での教育力なのではないかと感じさせられます。 かつて、日本の地域社会も、隣組を中心とした地域共同体での教育力が子供たちに伝わっていたのではないだろうか。 働くだけが人生ではない 私の古い友人・「ラ・マンチャの伊達男」、マヌエルの人生観 マドリッドの南、40キロに位置するトレド県のセセーニャ村に住んでいた、私の古い友人マヌエルとアンヘラ夫妻。 セセーニャ村は、スペイン王宮とホアキン・ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」で知られたアランフェスの街のすぐ隣の村で、野兎がたくさんいる静かなこの村を、私も大層気に入っていたのですが、3カ月程前に、セセーニャ村からさらに南のラ・マンチャ地方真っただ中、人口300人のカバーニャ・デ・ジェペス村に小さな家を建て、引っ越したので、「是非泊まりに来い」と、言うのです。 マヌエル(50歳)は、マドリッド・アトーチャ駅近くにある学校の英語教師で、パソコン等のハイテク機器にも堪能なところから、学校ではかなり重要視されているにもかかわらず、勤務はフルタイムをこなさないで、午後3時に終了させている。勤務時間を一杯に働けば、もっと給料がもらえるのに、それをしないで3時に退勤し、電車と車を乗り継いで、カバーニャ村の自宅に4時半に帰宅し、昼食をゆっくりとりながら、午後はシェスタをはさんで散歩やサイクリング、音楽等で自由に過ごすのだと言う。 7月から8月にかけてのバカシオーネス(連続30日の長期有給休暇)は、読書とプール、そして地中海のコスタ・デル・ソル(太陽海岸)やピレネー山中への旅行を楽しむ生活に、私は、自分自身の人生を振り返らざるを得ない慟哭さえ覚えるのです。 羊の大群と風車。気が遠くなるようなラ・マンチャの大平原。 もっと働けば給料も増えるし、地位も上がると言う選択の自由がある中で、左右を振り向いたり、横並び一線の組織の「みんな」に合わせることをせずに、「働くだけが人生ではないよ」と言って、自らの考えを貫き通すラ・マンチャの伊達男の生き方には、改めてスペイン人と日本人の人生観・文化の違いを感じます。 マヌエルが「小さな家」、と言っているカバーニャ村を訪ねたのは、2007年12月24日(月)クリスマス・イブの日でした。セセーニャ村の旧宅に親戚・縁者が30人以上集まり、賑やかにクリスマス・イブを過ごして、カバーニャ村へ移動を始めたのは夜中の一時半。セセーニャ村からカバーニャ村までは車で約30分です。アランフェスの街を通り過ぎて見渡す限り真っすぐな道を進み、カバーニャ村が近付くと、そこは漆黒に閉ざされた闇の世界。家らしい建物がちらほらと、かろうじて見える他は、どこを見ても何もないのです。マヌエルがいつも口癖のように言っていた「静かで、何もないところが好きだ」とは、カバーニャ村のことだったのか。それにしても、私にしてみれば何もなさすぎる村だ。 地平線の彼方からの「日の出」 翌朝は、紅色に染まる地平線の彼方から昇る真っ赤な太陽と、燃えるような朝焼けで目が覚めました。 昨晩は、スペインのアミーゴとクリスマス・イブで余りにも盛り上がり過ぎ、大騒ぎをして時間の経つのを忘れてしまい、床に就いたのが深夜だと言うのに、人は、何もない大自然の中にいると、起こされなくとも朝になると目が覚めるらしい。大きなガラス窓から遥か地平線の彼方まで、視界を遮るものが何もないから、昇る太陽がこれほど大きく見えるのかもしれない。一階から三階まで、すべての部屋から朝日が射しこむように設計されているのも、いかにもマヌエルらしい。 カバーニャ村での「日の出」。遥か地平線の彼方まで、前方に見えるのは電信柱一本だけ。 ビスケットとチュロス、牛乳、コーヒーの朝食後、カバーニャ村を散策しました。人口300人の小さな村ですから、15分〜20分もあれば村を一周してしまいます。マヌエルの家から5分程のところに、村でたった一軒しかないバルがあり、朝早くから客がいました。こんな小さな村に、ちゃんとバルがあるのもいかにもスペインの村です。バルの隣には、これも小さな役所があり、村の行政を取り仕切っていました。 村はずれの見晴らし台から眺める朝霧のかかったラ・マンチャの大地は、目まぐるしい現実の生活を忘れさせ、非現実的で砂上の楼閣的な幻想さえ覚えさせますが、冬のラ・マンチャの朝はさすがに寒さが厳しく、標高700メートルのメセータ大地にたたずんでいることをも感じさせます。 マヌエル宅に帰って、少し聞きづらいことなのですが、「マヌエル、これだけの家を新築するには、一体どのくらいかかったのかね」と、私が一番聞きたいと思っていたことを聞いてみました。 ラ・マンチャの一戸建て高級チャレの値段 マヌエルの言う「小さな家」とは、三階建てで全館暖房、中庭にはプールと温水シャワー、サウナ、自動シャッターのガレージがある家なのです。スペインでは、このような造りの家屋を「チャレ」と呼んで、一般にはかなり高級な住まいと考えられています。 「154、400ユーロ(約26、250、000円)だよ」 「26、250、000円かー・・、日本だったらどの位するのだろう、相当な出費を覚悟しなければならないだろうな」 「セセーニャ村の方は、296、000ユーロ(約50、400、000円)で売りに出しているのだが、まだ買い手がついていないよ。でも、そのうち売れるさ」 えっ・・、何ということだ。売りに出したチャレがまだ売れていないうちに、新しいチャレを建ててしまうなんて、私たちのやり方ではないな。このあたりが、スペイン人と日本人の人生に対するスタンスの異なるところなのだと思う。 マヌエルと話をしていると、日本人の私には、次から次へと疑問点が出てきます。 「マヌエル、家族の誰かが病気になったり、あるいは体調を崩した時の病院はどうするの」 「病院は、アランフェスへ行けばいいよ。アランフェスには今、大きな病院が建てられているんだから、全く心配ないな。カバーニャからアランフェス迄は車で15分だから」 「カバーニャには、学校も無かったね。子供たちの教育はどうするの」 「学校は、オカーニャが近いよ(オカーニャは、カバーニャから10キロ隣の町)」 「セセーニャ村の古い友人や、近所の人たちとの付き合いもあるんじゃない」 「カバーニャで、友人がすぐに出来るよ。ほら、あの人たちは、もう親しい友人だから」 なるほど・・、私たち日本人とは発想が違う。マヌエルの言うことは、いちいちもっともで、分かり易いのですが、友人や近所づきあいについては、アンヘラが大層嫌がっていたので、スペイン人といえども、それぞれ感性の違いがあるのかも知れない。 東西両陣営「対立から共存・共栄の時代」― 列車でハンガリーの首都ブダペストへ ― NATO(北大西洋条約機構)とCOMECON(経済相互援助会議)は、かつて冷戦時代に東西両陣営の対立の象徴的存在でありました。EUは、それらの国々を統一して一つの連合国家を作ったというのですから、21世紀の世界は、領土・人民・主権という国家の概念を、根本から問い直さなければならないグローバルな時代になっているようです。 EUは、ポーランド、ハンガリー等旧東欧圏の国々と、ラトビア、エストニア等ソ連圏の3か国を加えて27カ国体制になったわけですが、人・物・サービス・資本の移動はどのようになったのでしょうか。国境などは、物理的な障害物が除去されて、移動が自由になったのでしょうか。 私は、この疑問点の数々を検証する拠点として、ハンガリーの首都ブダぺストを選びました。 ブダペストへの移動方法ですが、マドリッドからブダペストへ直接飛ぶ路線は、まだ航空運賃が自由化されていない為なのか、驚くほどの価格です。そこで、マドリッドからオーストリアのウィーンまでが空路、ウィーンから列車に乗ってスロバキア経由でブダペストへ移動する方法をとりました。 西側の国から、旧東欧圏への列車での移動ですから、どのような旅になるのか、多少心配しながら、ウィーン西駅でブダペスト一等往復の切符を115.20ユーロで購入して座席へ。列車は、一等車と二等車に分かれており、一等の車両は、全てコンパートメントになっておりゆったりと座ることが出来ました。 ブダペストまでは約3時間。列車はウィーンの森を抜けて、郊外は見渡す限りの冬小麦と菜の花畑地帯が続きます。 ウィーン西駅を出発しておおよそ30分、スロバキアとの国境の街ブラチスラバ駅で、二人の出入国管理官が列車に乗り込んでパスポートだけを検査し、荷物等の税関検査はなく、列車はそのまま走り続けてブダペスト駅へ到着しました。 オーストリアとスロバキア国境の街、ブラチスラバでのパスポート検査。 ブダペストの街は、駅周辺や街の中心部は清潔で文化の薫りが高く、マーケットでも物が豊富で、私の頭の中にある「東側の社会主義国=「不自由で、選択の自由のない国」という、ネガティブな国家観は払拭せざるを得ないような発展振りでした。 旧東欧圏の国々からの労働力の移動 国境の物理的障害物が撤去され、人・物・資本の移動が自由になったことにより、今、EU27ヶ国内では、旧東欧圏の国々からイギリス、ドイツ、フランス、ベネルクス三国等への労働力の移動が始まっています。労働賃金の安い旧東欧圏の国々から、労働賃金の比較的高い前記西欧圏の国々への移動は、EUの労働生産性を支えています。 「21世紀の世界経済は、ドル、円、ユーロつまり米、日、EUの三極に収斂される」と、考えられますが、ユーロ経済圏の元気さを見ると、いよいよそのシナリオが、現実味を帯びてきたような気がします。