私の箱根駅伝回想録
 − 前編

 
東洋大学 陸上競技部OB
 経済39年卒 加瀬  忠

 
東京箱根間往復大学駅伝も、来春で85回の記念大会を迎えます。
 筆者が東洋大学箱根駅伝チームの選手として走り、その後チームのコーチ、監督として指揮を執ったのは、第38回大会から第46回大会までですから、もう大分前のことになります。
 今、こうして「私の箱根駅伝回想録」の執筆を思い立ったのは、このうち、監督として指揮を執った第40回から46回大会までの7年間で、チームは4位が2回、5位が1回、6位が2回、7位、9位が各1回の成績でしたので、その時の箱根駅伝を回想し、記録として残しておこうと考えたのが動機の第1です。

 そして、動機の第2は、というよりもむしろこちらの方の思いが強いのですが、今年の東洋大学チームは、1、964年の第40回記念大会の折に、松田信由君、神原 惇君等、元気の良い1年生5人をレギュラーに抜擢し、総合4位に入賞した時のチームとよく似ているのです。筆者の心の中に、40年以上前に、最終エントリーで悩み苦しんだ末に、箱根駅伝で言い伝えられてきた選手起用方法の常識を破り、1区から新人を並べ、そのまま勢いよく突っ走った時のチームが、今、鮮明に蘇ってきているのです。筆者のあの時の記憶が薄れないうちに、東洋大学の箱根駅伝史として記録に残し、東洋大学駅伝ファンの皆さんと共に感動を共有したいと思い立ったのです。

 新人を5人起用して4位入賞の快挙!
 
1、964年、第40回箱根駅伝大会は、中央大学が11時間33分34秒で史上初の6連覇の偉業を達成した記念大会でした。筆者の手元のメモでは、この年の中大は、碓井哲雄君が2区で、岩下察男君が4区で快走し、2位の日本大学を28秒離しての優勝でした。
 また、この年は40回の記念大会ということで、箱根駅伝の歴史では珍しいと思うのですが、関東学連の15チームの他に、関西の立命館大学、九州の福岡大学の2チームも加わっての大会でしたから、大層賑やかな大会だったことを記憶しています。
 この時は、佐々木秀幸氏と伴走のジープの上で指揮をとりながら、2区の権太坂の登りで急追してきた、福岡大学の重松森雄君の地を這うような走りが思い出されます。重松君は、前年の英国ウィンザー・マラソンで2時間12分00秒の記録で優勝し、エチオピアのアベべ選手の持つマラソン世界記録を破っての箱根駅伝登場でしたから、マスコミの注目度も大変なものでした。

 
この年の東洋大学は、1区松田信由君、3区小林格治君、4区神原 惇君、5区小川勝己君、8区横掘泰寛君の新人を、レースの流れを作らなければならない重要な前半の区間で大胆に起用しての快挙でした。今振り返って見ても、この大胆な作戦は、先輩諸氏から語り継がれてきた、箱根駅伝の常識を破った戦術だったと思います。
 また、この年6区を走った最上級生の天野正二君は、山下りの名人と言われ、24.7キロを1時間10分53秒で駆け抜けましたから、今の6区20.8キロに換算すると、59分00秒を切るような記録になるかと思います。

 天野君の話では、宮の下から大平台にかけての温泉街では、凍りついた道路で足を滑らせて何度か転倒し、腰をしたたかに打ちつけての力走でした。
 風祭り(鈴廣前・現在の中継所)から、昔の小田原中継所の映画館だったオリオン座前までは、まだ3キロもあり、下りきった箱根湯本駅前あたりから、膝が笑って踊りを踊っている状態で、ここを10分を切るスピードで押し切るのは相当辛かったはずです。

 第44回大会は復路2位、9区後半まで先頭を走る。
 
1、968年、第44回の箱根駅伝は、東洋大学箱根駅伝チームが復路9区の後半まで先頭を走った思い出の大会ですので、この大会も振り返ってみたいと思います。
 
第44回大会で6区、山下りを担当したのは、長浜公良君。この頃の東洋大学は、天野正二君以来、神原 惇君、長浜公良君と山下りの東洋の伝統を受け継いで、強い選手が育ちました。

 6区長浜君も宮の下から大平台、そして函嶺洞門を難なくスピードに乗って走り抜け、箱根湯本駅前からの平坦地では、見事にギアーをチェンジして走法を切り替えました。山下りの選手の難しさは、宮の下・富士屋ホテル前の転げ落ちてしまうような急坂の走りを挟んで延々と続く下り坂から、平坦地にさしかかっての走法の切り替えにあるのです。何しろ湯本駅前からの平坦地は、箱根山を下ってきた選手にとっては、上りに見えてしまうほどなのです。この平坦地を上手く走れないと、すぐに2〜3分の差がついてしまいます。箱根の山下りの選手を選ぶ時の難しさは、単に選手個々の走力だけでなく、腹筋力、背筋力、脚筋力と強靭な精神力の優れた選手を山下り要員として育てる指揮官の眼力が問われるのです。
 長浜君は、風祭りからの最後の詰めも上手くまとめて、区間4位で7区の樋口良太君に襷をつなぎました。この頃は、今と違って復路も一斉スタートでしたから、下りも賑やかでした。
 7区樋口君も、長浜君の作った良い流れを途切れさせること無く、そのまま引き継いで国府津駅前から二宮駅、大磯警察署前へと続く小さなアップダウンのコースを快調に走り抜け、区間2位の力走でチームの順位も2位に上げました。


          
        
7区樋口君から襷を引き継ぐ山本 哲君。山本君は、後半の遊行寺の長
        い登りもペースを
落とすことなく一気に登り、1時間4分37秒の区間
        賞で先頭に立つ。鉄紺の半そでシャツ・ランニングに白地のTUのユニ
        フォームは、この時代から東洋大学のレギュラー用ユニフォームとなる。
        この時代より前は、白のランニングに鉄紺のイニシャルTがレギュラー
        の正式ユニフォームであった。
                             写真提供 加瀬 忠。

 8区は2年生の山本 哲君。湘南の松並木から藤沢橋と快調に飛ばし、遊行寺の坂付近で、ついに先頭を行く日大・高尾君をとらえ、並走すること無く一気に先頭に出ました。NHKの第1放送車、新聞各社の報道車(写真・下)を後方に従えての力走です。山本君は、その後もペースは全く変わらず、遊行寺坂上、原宿交差点と快調にピッチを刻み、1時間4分37秒の区間賞で9区佐々木功君に襷リレー。9区佐々木君も権太坂を快調に下り、保土ヶ谷、横浜駅前と相変わらず先頭を走り続けました。


          
       
第44回箱根駅伝9区後半横浜駅手前。日大・藤田君と先頭争いをする東洋
       大・佐々木功君。ジープの伴走車中央が佐々木秀幸氏、左が筆者・加瀬 忠。
       横浜駅前の国道1号線付近は、まだ市電が走っていた。  読売新聞社提供。

 
ジープの伴走車に長年乗っていて、今振り返ってみても、あれは実に楽しい思い出なのですが、伴走車のカー・ラジオで先頭を走っている自分たちの放送を聞き、同時にその放送をしているNHKの放送車を後方に見ながら選手に指示を出すのです。「いいぞ佐々木、汗も出ていていい感じだ。ハイ、ハイ、そうそう。イチ、ニー、そうそう」と、選手の走るピッチに合わせてリズムを刻ませます。「予定のタイムより30秒早いぞ」と、選手の一番知りたがっているラップ・タイムを、伝えることも、選手の力を引き出します。あの時は、こちらが選手に語りかけている声が、そのままラジオから聞こえてきましたし、ボリュームを少し上げて選手にも聞こえるようにしていたのですから、駅伝をしていて楽しくなってしまいました。山本君や佐々木君は自分の力走ぶりを放送で聞きながら、「佐々木、放送しているぞ」の呼びかけに、笑顔でこちらに合図を送っていました。

 
9区では、この後横浜駅前過ぎから追い上げてきた日大・藤田国夫君にかわされたのですが、復路2位でのゴールは、長い歴史と伝統を誇る東洋大学の箱根駅伝史の中でも、初の快挙でしたので、今でも筆者の東洋大学箱根駅伝史の中に生き続けています。そして、今年の東洋大学箱根駅伝チームは、大西君、柏原君、山本君、宇野君、若松君の主力を中心にして、筆者が、かつて指導していた時代のチームよりも、メンバーが揃っているような気がするのです。

          
       
6区箱根湯本駅前を快調に走る長浜公良君。下りきった箱根湯本駅前から、中
       継地点の小
田原オリオン座前までは、まだ約6キロの平坦地が続く。箱根の山
       を下ってきた選手には、この平坦地が、上り坂に見えるという。後方は専修大
       学。                       写真提供 加瀬 忠。

 
箱根駅伝とブレーキ
「箱根には魔物が棲む」。このことは、私たちの箱根駅伝時代にも、諸先輩から語り継がれてきた言葉です。たしかに、箱根駅伝の持つあの独特な雰囲気と、OB、駅伝関係者の多大な期待から、選手に与えるプレッシャーは大変なものです。

  箱根駅伝のブレーキの原因は、筆者の経験から、大きく分けて次の3つが考えられます。

 先ず第1は、レース1週間以上前からの体調管理の問題です。
 箱根駅伝の最終エントリー14名は、12月17日(今は、16名。12月10日)に発表されます。この時、レギュラー用ユニフォームの長袖と半袖、受け持ち区間のゼッケン、真綿、ネルの布を監督から受け取ります。駅伝当日に向けて、緊張は一気に高まります。
 チームの中では、当日走ることがほぼ確実なエース・クラスのメンバーは別として、補欠と交替するかも知れないメンバーは、チームの中でこの頃からお互いの微妙な駆け引き、神経戦が始まります。この緊張感に耐えられずに、直前になって下痢をしたり、精神的に不安定になったりと、自分自身の体調を崩してしまう選手も出てきます。
 また、12月の下旬近くになると、かぜをひいて熱を出してしまう選手も出てきます。
 大会一週間前にこのように自己管理がしっかり出来ていない選手は、走ってもブレーキをおこしてしまいます。下痢と発熱には、十分注意しなければなりません。
 また、選手の立場からすれば、自分の体調が思わしくなくても、周囲には話さないものですから、選手の異変を見抜く監督の眼力も問われます。

 そして次が前日から当日にかけての問題です。
 レースを翌日に控え、選手は午後9時頃には床に就きます。翌日のことを考えて、何とか眠ろうとするのですが、これがなかなか出来ないのです。「過緊張」で、目が冴えてしまいますから。1区の選手などは翌朝3時に起きてスタートに備えるわけですが、結局数時間の仮眠の状態で当日の朝を迎えます。20キロ以上の距離を走るのに、「よく眠れなかった」ことで必要以上に自分を追い込んでしまい、コンディションを崩してしまうこともあるのです。実際には、レース前夜によく眠れなかったことの記録への影響は、自分が思い込んでいるほどではないのですが、引きずってしまうのです。

 そして次が、襷を受け取ってからの突っ込み過ぎです。
 
箱根駅伝で一番怖いのは、前半のオーバーペースによる後半の失速です。特に15キロ過ぎからのブレーキによる失速は致命的です。
 タスキを受け取ってから3キロ過ぎぐらいまでは、突っ込みすぎること無く、うっすらと汗ばみ自分のペースが確認出来るような走りが良いのですが、これがなかなか出来ません。箱根駅伝の日頃のトレーニングは、15キロ過ぎてからの5キロを如何に走るかのトレーニングなのですから、襷を受け取ってからの自分の力以上の突っ込みには十分注意しなければいけません。

 
箱根駅伝名物ジープの伴走車
 
筆者が東洋大学箱根駅伝チームを指導していた昭和40年代は、箱根駅伝出場の各大学にジープの伴走車が認められていました。
 ジープの伴走は、1区の八ツ山橋(後に鈴ケ森11.5キロ地点に変更される)からというルールがありましたので、8時前にスタート地点の大手町読売新聞社前で一区の選手から離れ、高速一号羽田線を走り、八ツ山橋(7.85キロ地点)で選手の到着を待ちました。
 携帯電話等の通信手段のない時代でしたので、各大学は、ジープの監督・コーチへの情報の伝達には、いろいろと工夫を凝らしたものです。
 八ツ山橋で待っている東洋大学の監督車へは、バイクで集団を追いかけている忍者が、1区に起用した選手のスタート後の位置取り、増上寺山門前あたりを通過する様子を、そっと伝えてくれました。特に印象に残っているのは、昭和39年の第40回大会です。新人の松田信由君を1区に起用していましたので、忍者バイクの「松田は先頭集団、うっすらと汗ばんで元気一杯です」の情報に、こちらが元気をもらって伴走出来た事を思い出します。
 箱根駅伝の伴走も、今とは違って大らかな時代でした。

 湘南海岸の海沿いの松並木は、今では松の木が大きくなり、海を見渡すことが出来ないほどになりましたが、40年前は松の木全体が人の背丈ほどの大きさでしたから、海風が強く吹くと、海岸通りは砂浜からの砂埃と風で、選手があおられてしまったものです。そのような時は、伴走のジープが選手の前に出て風除けをしました。「引っぱる」と言って、ジープの運転手の村越君に「時速20キロ前後で頼む」と、こちらの意を伝え、走る選手の正面から指示を出し、叱咤激励するのです。このような名物も許されていた時代でした。

 1区から4区までの選手と、5区の選手の伴走では、伴走戦術が全く違いました。
 5区は、襷を受け取ってから風祭りのあたりまでは、「選手の突っ込み過ぎ」を抑えることに集中しました。「じっくり行こう、そう、いいよ」「まだ抑えて、ハイ、そうそう。肩を楽にして」と、とにかく箱根湯本駅のあたりまでは、はやる選手の気持ちを抑える声かけを繰り返すのです。こうしないと、選手は気持ちで前へ前へと走ってしまいますから。
 うっすらと汗ばむのが、やっと箱根湯本駅前あたりです。ここまでが約6キロ。伴走のジープからここまでは、選手の後ろから声かけをしますが、とにかくリラックスさせることと、走っている選手が新人か経験者かで戦術を使い分ける必要がありました。昭和39年の第40回大会では、1年生の小川勝己君を起用していましたので、後ろから指示を出しながら、小川君の汗の感じを大切にしました。

 いよいよ山が登り始める箱根湯本駅から旭橋にかけて、伴走のジープは選手の前に出ます。函嶺洞門をくぐりぬけて大平台の駅前までの登りは、まだ力をためておかないと、宮の下から七曲りの急坂はうまく登れません。山登りの選手を伴走していて、最初に選手を咤激励する地点は、宮の下駅前近くの富士屋ホテル前の急坂です。あそこの登りは、相当気合いを入れないとうまく登れません。
 「腕を大きく振って!」「ピッチを落とすな、そう、そのピッチ」「いい感じだぞ、イッチニー、そうそう、イッチニー、いいよ」「カッちゃん(小川君のニックネーム)ここを頑張れば、小湧園が待っているぞ」、と。(これは、箱根山中では唯一の平坦地が数百メートル続く小湧園で体制とフォームが立て直せる、という監督と選手の合図です)

  そして最後の難所は、恵明学園前から続く七曲りの急坂です。ここでは、ホイッスルを使って「ピッピッ、ピッピッ」と選手を強引に引っ張りました。「顎を引け」「もっと腕を振って」「腕を抱え込んで、顎を引いてピッチを刻め、ピッピッ、ピッピッ」と、とにかくガンガンと、とことんたたきました。実際、そうしないと、ここでは共倒れになってしまいますから、いい恰好はしていられません。監督の気合いと、選手の意地のぶつかりあいでした。

 箱根の山登りの場合、登りきった頂上から曽我兄弟の墓まで、一旦下って、また少し登ります。ここは、芦ノ湖から吹き付ける風が相当強く吹きます。箱根山中の冷え込みで体温を奪われていると、この風向きの変化は相当こたえます。ゼッケンの裏側の真綿、ネルの布、ワセリン、オリーブオイルの威力が遺憾なく発揮される場面です。曽我兄弟の墓前からは、約5キロを一気に下って芦ノ湖駐車場の往路ゴールへと向かいます。


          
        
7区東洋大学樋口君と順天堂大学久田君のデッドヒートは、国府津駅前か
        ら二宮駅前、大
磯警察署、切通橋と延々7キロにわたって繰り広げられた。
        この後、樋口君が単独2位に順位を上げる。    写真提供 加瀬 忠。

 中継所でタスキを受け取った選手に、伴走車は、どのタイミングで、何を指示するのかといいますと、先ず第1は、タスキを受け取った選手が、直後に突っ込みすぎないことに全神経を集中させます。どのような実績のある選手でも、鉄紺のタスキを受け取り、道路からあふれるほどのファンの声援を受けますと、どうしても気持ちが舞い上がってしまい、力量以上のスピードで突っ込んでしまいます。先ず、タスキをしっかりと掛けさせ、「さあー、落ち着いてゆこうー」「いい感じだよ」と、ジープから声をかけます。中継所でタスキを受け取っても肩にかけずに、タスキを握ったまま猛スピードで突っ込んでしまう選手を抑えることが大変でした。

 この声かけも、筆者が伴走の監督車に乗った最初の頃は肉声だったのですが、肉声ですと、4区の小田原、5区の湯本あたりでは、声がかれてしまって、指示が通らなくなってしまうものですから、ハンド・マイクを使うようになりました。使うようになった、と言うよりも、片手に持てる小型のハンド・マイクがこの頃発売され、使えるようになったのです。このハンド・マイクには、大層感謝したものです。

 
箱根駅伝の準備期間
 
箱根の山登りと下りは、複数の候補者を決め、夏から秋にかけて特別の準備をします。
 都道府県対抗の青森〜東京間駅伝が行われる頃には、箱根湯本の「鎌倉屋」と元箱根の「むさしや」で「山籠り」をし、登り要員は、小田原市内のオリオン座前から箱根湯本駅前までの平坦地の走り方、宮ノ下「富士屋ホテル」角の目の前に迫って来るような急な登り、実際には大した距離ではないのですが、箱根の山登り区間では、唯一の小湧園前の真っすぐな平坦地の走り、恵明学園からの七曲りの最後の登り、登りきったガソリン・スタンドからは、曽我兄弟の墓手前まで一旦下ってまた少し上り、そこからはフォームを切り替えて一気に芦ノ湖のゴールまで駆け抜けるトレーニングを繰り返すのです。


  5区山登りの難しさは、長い登り区間と、登りきってからの、下りのフォームの切り替えにあります。登りは前傾姿勢をとり、1〜2メートル先に視線を落とし、腕を抱え込んでピッチで走ります。一方、登り切ってからの下りは、ややストライドを延ばし、顎を引いて反り返るのを防ぎながら出来るだけブレーキをかけないようなフォームに切り替えなければなりません。頂上までで、ほぼ力の90パーセント以上を使い切り、体力、気力の限界の場面での難しい注文になります。また、頂上からの下りは、コンディションが一気に変わり、芦ノ湖から吹き付ける強い風が、向かい風に変わります。これに体温を奪われ、脱水状態も加わった低体温状態でゴールまで押し切るのです。

 
駅伝当日の準備
 1区は、8時スタートですから、3時過ぎの起床です。起床後、付き添いのチーム・メイトと共に、一回目のウオーミング・アップに出ます。暗闇の中を防寒着に身を包み、ゆっくりと走り、体操、ストレッチをします。緊張で硬くなっている身体をほぐし、襷を受け渡しする時の心の準備をすることが主な目的です。不思議なもので、身体を動かし始めると、昂った気持ちが少し落ち着きます。うっすらと汗ばんだ段階で、宿舎に戻り、ランニング、ゼッケン、シューズ、手袋、ワセリン又はオリーブ・オイル等の点検をします。駅伝選手の場合、この点検は、自分でするのが普通です。この後、監督、コーチと一緒の宿に泊まっている選手は、直接監督に、別の宿舎に泊まっている他の区間の選手は電話で監督と連絡を取ります。補欠と交代する場合は、最終コールの締切時間がありますから、慎重に行動しなければなりません。
 
この後、遅くとも4時間くらい前には食事を始めます。20キロ以上の距離をかなりのスピードで走り切るわけですから、当日の朝の食事には神経を使います。

 レース前の食事ですが、筆者の現役時代には、「ご飯」派とパン食派に分かれていました。食事で思い出すのは小出義雄さんです。小出さんは「ご飯」派の代表でしたね。彼は順天堂大のOBですが、学生時代は青森―東京間の都道府県対抗駅伝大会等の千葉県代表チームで、一緒に走ることが多かったものですから、宿がいつも同じで、面白い、楽しい人でした。
 さて、「ご飯」派の食事内容ですが、ご飯2〜3杯、味噌汁、半熟の目玉焼きと刻みキャベツ、ベーコン添え、梅干し、ノリといったような献立だった、と記憶しています。小出さんは、エネルギー効率が良いからと言って、みそ汁の中に餅を入れたりしてましたね。

 パン食派の食事内容は、トースト2〜3枚とバター、ジャム又は蜂蜜、ベーコン・エッグのレタス添え、牛乳、コーヒー又は紅茶に砂糖をたくさん入れて、レモンをかじります。5区山登りの名人で東洋大学駅伝チームの歴史に名を残す宍戸英顕さん(第11回別府毎日マラソン優勝者、2時間23分54秒)もパン食派でしたし、6区山下りで好記録を連発した同級生の天野正二君も、レース前はパン食派でした。

 
食事が終って、コースへ移動するまでの時間、宿舎で一休みします。この時、瞬間的に猛烈な睡魔が襲ってきます。あれは不思議なものです。でも、ここで居眠りをしてはいけません。付き添いは、話し相手になり、話を盛り上げて一時を過ごします。そして自分の受け持ち区間へ付き添いと共に移動をするのです。この移動、事前に「移動時間」や電車のトラブルで予定通り乗り継げない場合のことも想定し、「別の移動方法」を入念に調べておきます。

 
中継所へ到着したら、一休みします。この時、横になれると良いですね。軽いマッサージの後、レース直前の2度目のウオーミング・アップに出かけます。自分が襷を前走者から受け取る時間を逆算し、1時間前から開始するというのが普通です。先ず、ゆっくりゆっくりとジョッギング、汗ばんできたら体操、ストレッチで十分体をほぐします。再びゆっくりと走り始め、今度は気持ちよく次第にペースを上げます。次に、100メートルほどの距離を数本快調にダッシュして流します。身体にスピード刺激を与えることと、気持ちを高めることに集中するのです。この時、自分で手をポンとたたいてアクセントをつけてスタートをしたり、ステップをしながらスッとスタートを切るなどの変化をつけると良いアップが出来ます。ここまでアップすると、かなり汗をかいているはずです。身体全体が汗となり、タオルで拭き取る状態が好調の証です。もう、気持も落ち着いているはずです。
 汗をすっかり拭き取り、TUのランニングに着替え、膝、腿、ふくらはぎにワセリン又はオリーブ・オイルを塗り込み、最終コールを受けます。この頃には、前区間の情報が走者にも届いています。走者は、またここで、心拍数が120/分ぐらいに上がり、緊張が高まります。これは、人の感情の生理的な変化で、このくらい心拍数が上がっていないと、アドレナリンとかエンドルフィンが出ませんから、このくらいの状態がランナーズ・ハイの良く走れる状態なのです。

 
ユニフォームとゼッケンの秘密
  箱根駅伝のゼッケンには、大学名と自分の走る区間が大きく書かれています。この箱根駅伝用のゼッケン、思ったよりも随分大きいです。ユニフォームに縫い付けると、腹部が全部覆われるくらいの大きさです。ゼッケンの裏側には、ネルの布とか真綿を縫い込みました。気温の急激な変化による腹部の冷えを防ぐためです。特に5区、6区の選手には、この防寒対策が不可欠でした。筆者が選手、監督だった頃の東洋大学箱根駅伝チームは、皆そうしていました。最後に、ワセリン又はオリーブ・オイルを腹部と腿、膝、腓腹筋にすり込みました。

      
         
「ゼッケン8」、8区を走る筆者。大きなゼッケンの上の部分に東洋大
         学、下の部分に自分の走る区間の8が印刷されている。ゼッケンの裏側
         又はユニフォームの下には、腹部を
覆うように真綿とネルの布を縫いつ
         け、冷えからくる腹痛を防いだ。もちろん、ワセリンかオリーブオイル
         を塗りこむことも大事な戦術だった。

 
走り込みと故障
 
箱根駅伝を目指す選手にとって、夏から秋にかけての季節は、徹底した走り込みの時です。
 
この時期は、レースに出場するよりも、とにかく「距離を踏む」ことによって、ひたすら箱根駅伝選手としての基礎体力・全身持久力を養います。月間走行距離が、1、000キロを超えることもあり、「足の故障」とは隣り合わせの毎日を送ります。足首、アキレス腱、膝、腰そして脚の筋肉全体を痛めること無く、毎日予定の距離を踏むことは、並大抵のことではありません。

 
大学の授業が休みの8月から9月にかけては、川越・鶴ケ島の寮を離れて、涼しい高地での合宿練習を行います。
 合宿練習は、通常朝と午後に分けての練習になりますが、朝練習はジョッキングと持続走、午後の本練習は10マイルから20キロ〜25キロのペース走を中心に行います。合宿も後半になると、疲れが全身に溜まり、なかなか思うように距離が踏めなくなるし、スピードにも乗れなくなってきます。足・腰の筋肉に異変を感ずるようになるのもこの頃です。入浴後は、お互いにスポーツ・マッサージを入念に行い、サロメチールを塗り込むなどのフット・ケアーは日常的な心がけであり、これもトレーニングの重要な一環となります。

 故障予防の為のシューズの工夫

 箱根駅伝の選手が故障せず、予定の距離を踏むためには、練習の場所選びとトレーニング・シューズの工夫、練習後のマッサージ等入念なフット・ケアーが必要です。連日舗装された固い道路のみでの練習は、どうしても足腰に相当な負担がかかり、故障の原因となります。この点、今の選手と、私たちの時代では、状況が相当違うと思います。私たちの時代には、鶴ヶ島の合宿所からロードに出て距離を踏む場合、鶴ヶ島から坂戸、高坂方面は舗装されていない砂利道でした。また、近くに霞が関ゴルフ場や東京ゴルフ場があり、「東洋大学箱根駅伝チームです」と一言お願いし、ゴルフ場の外側を大回りしてプレーの妨げにならないように走れば大目に見てもらえた時代でした。
 ランニング・シューズは、今のようにいろいろと衝撃吸収に工夫を凝らした優れたものはありませんでしたから、自分で改良しました。

 記憶が薄くなっていて、確かなことは言えないのですが、たしか、大塚駅の近くに「ハリマヤ」というマラソンのシューズを作ってくれる専門店がありました。注文をすると、自分の足型に合わせてサイズをとり、シューズを作ってくれるスポーツ店でした。足のサイズは、足底だけではなく、甲の高さも測ってくれましたから、出来上がったシューズはよく足になじんでいましたし、足底などは平らではなく、自分の足底に合わせて滑らかな曲線になっていましたから、距離を踏んでも疲れ方が違ったような気がしました。
 値段がやや高めで、そう度々は注文出来なかったのですが、自分の足に合っていることと、つま先などは布シートではなく、当時は貴重な革で覆ってくれましたから、駅伝選手には結構人気があったのです。

 また、
出来上がった「ハリマヤ」のシューズを、それぞれがさらに改良を加えます。筆者も、先輩諸氏に倣って踵の部分をペンチで静かにはがし、卓球のラケット用のラバーを切り抜き、セメダインで貼りつけて練習用に使っていました。

 その後、オニツカタイガーという実に軽いシューズを見かけるようになりました。
 
ハリマヤは、足を衝撃から守り、故障をかなり防げたような気がするのですが、少々重かったですから、レース用には、オニツカタイガーのシューズを履く競技仲間が増えていったのだと思います。

 「私の箱根駅伝回想録 ―後編―」へ。

 
東洋大学箱根駅伝選手の一年間へ。