私の箱根駅伝回想録 − 後編

 
東洋大学 陸上競技部OB
 
経済39年卒 加瀬  忠


  合同のポイント練習
 
インターバル・トレーニングと距離を踏むトレーニング


  東洋大学箱根駅伝チームでは、伝統的にロードに強く、持久型の選手が多く育ちました。
 筆者が東洋大学へ入学した頃を振り返ってみても、関東インター・カレッジや全日本インター・カレッジ等、トラックでのスピード・レースでは目立った活躍が出来ないのに、ロードへ出ると、驚くような強さを発揮する選手が多くいました。
 東洋大学のこの伝統は、練習環境と合同のポイント練習の取り組み方で培われたのではないかと考えています。
 このあたりを、もう少し考察してみたいと思います。

 その一つは、練習環境にありました。筆者が東洋大学へ入学した頃は、陸上競技部の合宿所は東京・板橋の志村蓮根町にありまして、もちろん陸上競技部専用のグラウンドはありませんでした。ですから、日々のトレーニングは、赤羽から新河岸川の土手沿いを走ったりして距離を踏んでいました。
 記憶が薄れてしまって恐縮なのですが、今の川越・鶴ヶ島の総合グランドへ引っ越したのは、たしか昭和36年頃だったと記憶しています。やっと念願の専用グランドが出来たのですが、練習は相変わらずロードが主体でした。

 筆者が、駅伝チームを指導していた頃になると、チェコのE・ザトペック選手の影響で、駅伝の練習にもインターバル・トレーニングが採り入れられ、関東の各大学でもスピードのある選手が多く育ちました。
 
また、ニュージーランドのA ・リディアード氏の唱えるマラソン・トレーニングも注目されていた時代でしたので、各大学では、スピードと持久力を兼ね備えた箱根駅伝の選手の育成に努力していました。

 
40年以上前の、東洋大学の合同ポイント練習
 
このような、時代の大きな流れの変化の中でも、東洋大学の合同ポイント練習は、インターバル・トレーニングを加味したロードの距離走が主体でした。
 昭和39年には、元気の良い松田信由君、神原 惇君、小川勝己君、横掘泰寛君、小林格治君等が入学してきましたが、彼らを指導したスケジュールを、私の手元のメモで再現してみますと、合同のポイント練習は次のA〜Dのようなものが主でした。
、インターバル・トレーニング400メートル×15〜20。68〜70秒つなぎ200メートルのジョッグ。、インターバル・トレーニング1、000メートル×7〜10。2分50秒〜55秒つなぎ500〜600ジョッグ。、ロードでのペース走10マイル又は20キロ。1キロ3分前後の、レース・ペースに近いスピードで追いこむ。、タイム・トライアル10マイル〜20キロ。一斉スタートで、タイムを競う。61分〜63分で押し切る。
 以上のようでしたが、A、Bのインターバル・トレーニングよりもC、Dのポイント練習の方が多かったですね。

 合同のポイント練習以外の日は、それぞれが自分のスケジュールに従って練習しますが、このフリーの取り組みが、選手個々の、その後の記録の伸びに結び付いていました。強くなってゆく選手は、ここでもかなり距離を踏んでいましたから。
 第42回箱根駅伝の最終エントリー前に行ったD、20キロのタイム・トライアルの記録は以下のようでした。
 松田君61分50秒、横掘君62分01秒、神原君62分30秒、佐々木君62分53秒、以下12位までが63分台でゴールしました。40年以上も前の箱根駅伝の選手の20キロの記録ですが、5、000メートルを14分30秒から15分00秒前後のトラック・レースの記録に比べて、ロードの記録が非常に良かったことが分かります。

 筆者は、この箱根駅伝回想録をまとめていて気がついたのですが、筆者が指導していた頃は、「故障で走れない」選手が今の選手より少なかったように思います。箱根駅伝の最終エントリー前後でも、故障でメンバーを外れる選手は、ごく少数でした。もちろん、今の時代の駅伝はスピード化が進み、5、000メートルを13分台、10、000メートルを28分台で走ることが要求される時代ですから、トレーニングの質・量の増加により、足腰にかかる負担は、当時とは比べ物にならないくらいの厳しさはあるのですが、やはり「故障する選手が多いな」と、思うのがOBの実感です。

 思い当たるのは、やはり練習環境の問題なのでしょうか。道路に出て距離を踏む場合、今は、どこも舗装されていますから、固い舗装道路で連日距離を踏むと、どうしても足・腰に負担がかかり痛めてしまいます。

 東洋大学箱根駅伝チームには、合宿練習等の折に、練習後の相互スポーツ・マッサージの伝統がありまして、上級生が、下級生にマッサージの方法を指導したものです。距離を踏んだ時などは、アキレス腱から腓腹筋、大腿筋をスポーツ・マッサージでしこりを取り除き、翌日の練習に備える心がけが大切です。このフット・ケアーは、入浴後等に自分自身で、日常的に行うことも忘れてはいけません。

 箱根駅伝やマラソンを目指す選手は、故障せずに練習を積み重ねる事が出来る、トレーニング・スケジュールの消化率の良い選手が強くなるのです。松田君や神原君、小川君等は本当に故障が少なかったですから。
 駅伝選手の故障は、練習環境の問題と同時に、トレーニング・シューズの問題もあるわけですが、トレーニング・シューズを自分なりに工夫して、故障を少なくすることは可能なのではないでしょうか。
 今のシューズは、本当に良く改良されています。それに軽いですね。運動具店には、良い衝撃吸収グッズがたくさんありますから、自分に合ったものを選んで、練習用のシューズの中へ装着することが、日頃のトレーニングでは大切だと思います。

 
TU・鉄紺ユニフォーム誕生秘話
 
筆者が東洋大学箱根駅伝チームを指導していた頃は、白のランニングに鉄紺色のTのイニシャル、つまり、今のユニフォームの逆がインター・カレッジ等の試合用ユニフォームでした。この試合用のランニングを、「Tシャツ」と呼んでいたのです。
 
箱根駅伝では、白の半袖、長袖シャツの胸の部分に鉄紺色の横ラインと白で「東洋大学」の横文字、短パンも白で鉄紺色の二本ラインとゴムの部分に鉄紺色の横ラインがレギュラーのユニフォーム(私の箱根駅伝回想録 ―前篇― 筆者のユニフォーム姿)でした。
 また、トレーニング・シャツの上下も、白地で胸に鉄紺色でTOYO、腰の部分と袖口に同じく鉄紺色で二本のラインが入っていました。

 
その後、記憶が薄れてしまったのですが、たしか第44回大会前だったかな、当時米大リーグのニューヨーク・ヤンキースのNYの組み合わせが非常に格好良くて、東洋大学のユニフォームもTUを組み合わせようではないかと、鉄紺色のランニングに白のTUのイニシャルの話が持ち上がり、いろいろと組み合わせを議論した末に、現在のユニフォームの原型が出来上がりました。今まで着ていた白地のユニフォームから、鉄紺色のユニフォームに変わった直後は、何となく落ち着かなかったのですが、その後、すぐになじんで、「なかなか格好良いな」と、思うようになったのです。特に、ニューヨーク・ヤンキースのNYにヒントを得て組み合わせたTUが印象的で、インパクトが強かったように記憶しています。

 
「私の箱根駅伝回想録 ―前編−」でも紹介してありますように、樋口君、山本君、長浜君が身につけている鉄紺のシャツにTUのイニシャルを組み合わせた鉄紺のユニフォームが出来上ったのです。トレーシャツの上下も、まったく同じ考えです。
 今、全日本大学駅伝や箱根駅伝で力走する東洋大学の選手が身につけている「TUの鉄紺のユニフォーム」を見るにつけ、懐かしさで胸が一杯になります。

      

     
  昭和38年、横浜・三ッ沢公園陸上競技場で行われた全日本インター・カ
        レッジの入場行進をする東洋大学陸上競技部選手。白のランニングに鉄紺
        のTが試合用ユニフォームであった。旗手は校友会神奈川の村越光矩君。

 
全日本選抜駅伝の歴史


 
毎年出雲で行われる恒例の出雲大学駅伝は、今年で20回、伊勢で行われる全日本大学駅伝が40回となりましたが、その前身となる全日本選抜大学駅伝は、富山県の高岡市をスタートして七尾から能登半島先端の珠洲、輪島、羽咋、金沢の能登半島を一周するコースで行われていました。3日間かけて能登半島を一周するわけですが、裏日本の天候は変わり易く、晴れていても、すぐに雨が降ってくる天候に悩まされながら、ジープで伴走していたことを思い出します。

 
能登半島一周のコースは、舗装されている道より、砂利道の方が多く、雨上がりの区間では、各選手が泥を跳ね上げて走る具合を見ながら、選手の走法を研究したものです。

 
写真先頭を走っている東洋大学の田中末喜君は、後ろのゼッケンのあたりまで泥を跳ね上げる走り方でして、腓腹筋と大腿筋が非常に強く、着地した足を推進力にして巻き込み、スピードに結び付ける走り方をしていました。また、膝が非常に柔らかく、着地の寸前に膝から下をスッと前方へ振り出すフローティングのタイミングとその技術は、天性のものでしたね。写真で見ていただいても良くおわかりいただけると思うのですが、股関節の柔らかい、すっとストライドを伸ばす走法でした。

             

 
             全日本選抜能登半島一周駅伝で先頭争いを
               する、東洋大学・田中君, 日本体育大学・
               小沢君、愛知中京大学・加藤君。

 
全日本の選抜駅伝では、愛知の中京大学や関東の日本体育大学が強く、東洋大学と競り合っていました。
 
この頃、栃木から元気の良い伊沢徹男君が入学したのですが、東洋大学では珍しいスピードランナーでした。伊沢君は、第46回の箱根駅伝の1区で1時間3分25秒の区間賞をとるなど、箱根駅伝1区の六郷橋を渡ってからの、そのスピードの切れ味の鋭さで、他校選手を引き離した走力は、今でも筆者の脳裏に焼き付いています。
 伊沢君は、全日本の選抜駅伝の1区でも区間賞を獲得しています。

       

 
        全日本選抜能登駅伝スタート前の伊沢徹男君。左端は佐々木秀幸氏、
          中央で右手をかざして
いるユニフォーム姿が、日体大岡野監督。

 
全日本の選抜駅伝は、この後コースが伊勢神宮のコースになるのですが、砂利道コースの能登半島を、3日間かけて1周していた時代がなつかしく思い出されます。

 
箱根駅伝までの準備・調整期間はどの位必要か
 
箱根駅伝を目指している選手が、駅伝当日の1月2、3日に合わせて体調のピークを持っていくためには、どのくらいの調整期間が必要なのでしょうか。
 筆者が、長い間箱根駅伝チームを指導し、いまだに結論が出ていないテーマなのですが、経験的に筆者自身の考える調整法を述べたいと思います。

 
東洋大学箱根駅伝チームの場合、前にも述べましたように、夏休みに入ると川越の合宿所を離れて、霧ケ峰や九重山といった涼しい高原へ移動して合宿練習をします。ここでは、ひたすら距離を踏むことで毎日を過ごします。記録会や試合への出場よりも、走ることに専念した日々を過ごします。月間の走行距離は、朝練習も含めて900〜1、000キロくらいになると思います。

 追い込みと積極的休養
 
合宿から帰って一度、積極的休養を取ります。完全休養を取らないところが、駅伝を目指す選手たちの疲れをとる一般的な方法で、この方が体調の維持にプラスになると考えられるのです。
 10月に入ると、再び走り込んで、身体の状態をとことん落とします。もう、毎日疲労でくたくたの状態です。この時期1、000キロを超える距離を踏む強者も出てきます。この走り込みの期間で、かなりの距離を踏んでいるのに、伸び盛りの元気な選手は、前よりもペースが上がっている場合があります。筆者は、時計とにらめっこをしながら、このような走り方をしている選手を注目したものでした。これは、明らかに、入学当初よりも力がついていると考えられるからです。タイム・トライアルをしても、5000メートルの記録が15分30秒前後で入学してきた高校生が、一気に14分30秒前後の記録を出して、周囲を驚かせます。

 
指導者として、一番嬉しいのは、練習のスピード、消化率を見ながら、5、000メートル、10、000メートル、そして20キロのおおよその記録が予測でき、実際にトライアルをしてみて、選手がそれに近い記録を出した時の喜びは大きいですね。
 
11月に入ると、量を落として、徐々にスピード練習に切り替えます。10マイルのペース走とか、インターバル・トレーニング1、000×7〜10、あるいは20キロのタイム・トライアルのようなメニューをこなしながら、走り込みで蓄積した疲労をとり、且つ、スピードで筋力及び心肺機能をレースに近づけます。

 調整途上の大会
 
箱根駅伝選手の場合、調整上ここで大きな問題があるのです。
 筆者の頃は、この時期に「青森〜東京間駅伝大会」という、都道府県対抗の駅伝大会が1週間行われました。調整途上の主力選手を各都道府県に送り出すわけですから、各チームとも苦労が多かったです。

 また、前年の箱根駅伝大会でシード権をとれなかったチームは、予選会があるわけです。この予選会に一度体調のピークを持ってゆくためには、調整サイクルを早めて、ここに合わせます。問題は、予選会終了後本戦に向けてもう一度調整し直すわけですから難しさが残ります。
 さらに、前後して出雲と伊勢の全日本大学駅伝大会が行われますから、この駅伝大会に向けて調整し、体調を整えたチームは、そのまま箱根駅伝に向けてさらに良い状態を維持し続けることには無理があります。目指す大会にピークを合わせた体調は、必ず一度落ちるのです。これが人間の生理の不思議なところなのです。

 三大駅伝大会を同じメンバーで制覇は、無理な相談
 
筆者は以前から、出雲と伊勢で勝って、同じメンバーで箱根も制覇することなど、とても無理だと思っています。
 重ねて述べますが、大きな駅伝大会に向けて体調を整え、疲労を抜き、磨きをかけた最良の状態のコンディションは、そのまま続けてピークを維持することは、通常出来ません。もう一度つくり直す必要があります。ですから、大学三大駅伝に、同じメンバーで勝つことなど、物理的に無理な相談なのです。このあたりは、指揮官の眼力が問われます。要は、箱根駅伝に体調のピークを持って行くような調整だけに専念すればよいのです。体調を早く仕上げてしまっては、箱根本戦でなかなか良いレースは出来ません。

 それでも、箱根駅伝の最終エントリーに向けて、調整途上でも選手を決めなければなりません。東洋大学では、伝統的に最終のメンバーを決める前に、何度か「レース・コース」で、2〜3名の候補選手を、実際のコースで競わせました。1区候補の選手は、1区のスタート時間に合わせて、山の上り・下りの候補はその時間に合わせて、走るのです。ここで、選手をほぼ決めるのですから、皆必死で走りました。負ければ、エントリーから外れるわけですから、仲間といえども負けるわけにゆきません。

 神原君が59分24秒の区間2位で山を下った年の、下りのレース・コースなどは激烈でした。何しろ1年生の伊沢君や神宮君と3人で競争して、3人とも60分前後で下ってきたものですから、まあ、大変なレース・コースでしたと記憶しています。

 
積極的な休養も大事な調整法
 
量から質へ、そしてスピードに磨きをかけた調整が、故障もなく出来たら、12月最後の一週間で体調を仕上げるのです。ここで大切なことは、走り過ぎないこと。疲れが残ったままの体調では、記録の更新は出来ません。
 この時期では本選で走ることが確実な選手と、戦略上補欠にまわっている選手との交代があるかもしれない選手がいるわけです。箱根駅伝が近付き、気持に焦りが出て、監督の目が届かないところで更に走ってしまう選手も出てきます。コンディショニングの上で非常に大切なことですから繰り返して言いますが、これでは疲労が蓄積してしまい、ベスト・コンディションで当日のスタート・ラインに立てません。

 積極的な休養も、大事な調整戦略なのです。これが出来ないと、とてもうまく走れないのです。
 この一週間で大切なことは、レースの5〜6日前に、一度ポイント練習で体に刺激を与えます。1、000メートルの距離で後半スッとペースを上げ、心拍数を180/分以上に追いこむとか、あるいは距離をもう少し延ばしてみる。もう一度走ってみる。いろいろな選択があっていいと思います。指揮官は、ここで選手の最後の仕上がり具合を見て、最終的なメンバーを考えます。筆者はこの時、選手の体調の仕上がりと共に、フォームをよく観察して、故障をしていないか、あるいは異変を抱えていないかに目を光らせました。

 レース2日前は、完全休養をさせました。なかなか休んでくれないのですが、休むことも練習。休むことも調整の大事な戦略であることを選手にじっくりと言い聞かせ、ここでは完全休養する選手を見つめることに努力しました。
 前日は、出来るだけレース時間に合わせてウオーミング・アップをします。ゆっくりゆっくりと15〜20分ほど走り、体操・ストレッチ、さらにゆっくりと走りながら400メートルくらいの距離を60秒前後でスーッと走る。走りたくて気持が前を向いていれば、もう1回走ってみる。このくらいでやめさせます。汗をとって、最後にゆっくりと、気持ちをリラックスさせてクーリング・ダウンをします。このとき、出来るだけ選手に話しかけ、「いい感じだね」「なかなか良く仕上がっているよ」と、気持ちをリラックスさせます。

 ここまで仕上がっていれば、もう、選手は普通に走ってくれるのです。不安と緊張で一杯の選手に、「明日は大丈夫、問題ないよ」と、更に話しかけ、気持ちを落ち着かせることも、箱根駅伝の重要な戦略なのです。
 駅伝当日は、自分の走る予定時間の5時間前には起きて、一回目のウオーミング・アップをし、気持ちを落ち着かせるのです。

 
箱根駅伝のトレーニングは・・。
 
箱根駅伝に向けた日頃のトレーニングは、襷を受け取ってからの15キロ以降をいかに走るかの戦略を常に思い描き、そのためのトレーニングを積み重ねることにあります。
 箱根駅伝の区間距離である20キロ強を、かなりのペースで走り切るためには、人体のバイオリズムのいくつかの流れの中で、その流れに乗って、耐えて走ることにあるのです。

 20キロの距離を走るその流れとは、先ず最初は5キロ過ぎ前後にやってくるセカンド・ウインドの感覚です。襷を受け取ってからのこのあたりは、すっと身体が軽くなり、汗ばんで快調に走れるものです。この感覚をそのままに走りに結び付けてしまうと、オーバー・ペースとなってしまいます。実際には無理な注文なのですが、ここは、やや抑えるくらいの気持ちで走ることです。

 中間点から、15キロ過ぎのあたりまでは、苦しさと共に走りながらも、何とか押し切れます。そして間もなく15キロ過ぎのあたりでデッド・ポイント、限界に近い苦しみがやってきます。毎日ひたすら距離を踏み、スピードに磨きをかけトレーニングを重ねるのは、この15キロを走った後の詰めをまとめ上げるためのトレーニングと言えるのです。ここを、どのくらい耐え、ペースを落とさずに押し切ることが出来るかの勝負なのです。

 15キロまでは、誰でも、何とか走れるのです。15キロを過ぎた、最後の5キロをそのまま押し切る全身の持久力、最大酸素の摂取能力の向上をいつも念頭に、日々の走り込みを繰り返すのです。強い意志力と忍耐力が求められます。
 
箱根駅伝は、5、000メートル、10、000メートルだけのスピードでは、あの難しい箱根路は攻略出来ません。ここに箱根駅伝の戦略上の難しさがあるのです。トラックのスピードと、ロードの持久力を兼ね備えた、そう、まるで「カミソリと鉈を兼ね備えたような」伝統的な東洋大学箱根駅伝チームのような選手を育成することが課題なのです。

 
「私の箱根駅伝回想録」を思いつくままに、40年以上も前の記憶の糸をたどりながらまとめてみましたが、何しろ長い時間が経過しています。もしも、記述の中で整合性に欠ける部分や、数字がありましたら、ご指摘ください。


 最後になりましたが、筆者の次の監督を託した佐々木 功君の、LSDトレーニング理論をご紹介いたします。佐々木君は、この独自のトレーニングで、女子マラソンの浅井選手をはじめ、日本電気HEの駅伝チーム、そして多数のマラソン選手を育てました。

 
佐々木 功君のLSDトレーニング理論
 
「素質のない者でも、素質のある者に何とかして勝てないだろうか」。これが佐々木功君(元日本電気ホームエレクトロニクス陸上部監督)のLSDトレーニングの出発点でした。

 佐々木功君は、日本マラソン界に「LSD(Long Slow Distance)を紹介し、日本のマラソンランナー、ジョガーに多大な影響を与えました。「LSD」とは、文字通り「時間をかけて、ゆっくりと、長い距離を走ること」です。
 「LSDトレーニングを行うことによって、身体の末端に眠っている毛細血管を目覚めさせることが出来、競技能力を向上させることが可能となる」。これが、佐々木君のLSDトレーニング理論です。このプロセスを佐々木君は「身体資源の開発」と名付けました。
 また、佐々木君は東洋医学の影響も強く受けており、自然を重視し、四季に合ったトレーニングと栄養補給に心掛けていました。
 「休養、コンディション・コントロール、オーバー・トレーニング」というサイクルでトレーニングを行いましたが、佐々木君は、疲労が溜まった状態でのハード・トレーニングは、選手にとって有害無益だと考えていたのです。佐々木君にとって、ランニングは「創造の楽しさ、面白さ、喜び」だったのだと考えられます。

 
東洋大学時代の佐々木君は、決して才能に恵まれたランナーではありませんでした。しかし、彼はとにかく良く練習しました。走ることが大好きだったのでしょうね。
 彼は、他の誰よりも速く走りたいと思い、東洋大学入学当初はかなりハードなトレーニングを自らに課していたように思います。
 佐々木君は、合同のポイント練習の折、他の選手は1、000メートル×10のメニューで行っている時、「100メートル×100を別メニューで認めて欲しい」と申し出たり、10マイルのペース走の折に、佐々木君は朝の9時頃から走り始めて、昼過ぎにまだ走っていたりですね、筆者の作ったスケジュールとは別のトレーニングを申し出るものですから、随分やり合い、議論しました。当時は、筆者も佐々木君の提唱するLSDトレーニングの理解者ではなかったですから。

 
「無理なオーバー・トレーニングは、故障へとつながる」。佐々木君は、良くこのようなことを言っていました。
 故障した時は、芝生の上等を一人でゆっくりと走ることしか出来ませんでした。スロージョッグしか出来ないのに、故障回復後に試合に出ると普段より良い成績を残せることを不思議に思ったようです。筆者も、これには「なぜ・・?」と、言葉がなかったですね。これが、佐々木君とLSDトレーニング理論との出逢いだったように思います。

                  
「私の箱根駅伝回想録 ―前編―」へ

                             黎明期の東洋大学箱根駅伝写真館へ

                                            平成20年12月10日
  
                                         熊谷の自宅にて加瀬 忠