箱根駅伝選手の一年間
 
東洋大学陸上競技部 OB
 
昭39年経済卒 加瀬 忠

  TU・鉄紺ユニフォームで箱根路を走るための365日

  新入生歓迎マラソン
  東洋大学陸上競技部の一員としてのスタートは、新入生歓迎マラソンで始まります。
 
鶴ヶ島の合宿寮に入寮して数日後に、歓迎行事としてのマラソンがあるのです。このマラソン、箱根駅伝チームだけではなく、陸上競技部の全員が参加します。
 
コースは、東武東上線志木駅前から川越街道を鶴ヶ島へ向かいます。川越街道の松並木を過ぎると川越市内を大きく迂回し、霞ヶ関から鶴ヶ島の合宿寮まで走るのですが、距離が長いので、皆必至で走りました。

        
       
東武東上線志木駅前出発の東洋大学陸上競技部恒例の新入生歓迎マラソン。新入生
 
     と上級生が加わり、川越街道の松並木を20キロメートル走った。白いランニング
 
     に白の短パン、鉄紺でTのマーク。白の短パンの腰の部分に鉄紺のライン。サイド
 
     に2本の線が入っていた。この後、ニューヨーク・ヤンキースのNYにヒントを得
 
     て鉄紺色のランニングにTUを組み合わせた現在のユニフォームが出来上がった。

 
春の合宿練習
 
箱根駅伝に憧れ、TU・東洋大学の鉄紺ユニフォームで箱根路を走ることを夢見て集まった全国の高校生は、春の合宿練習から大学生活のスタートを切ります。
 高校時代は、地方大会、各県大会で好記録を残している高校生も、トレーニングの質・量ともに豊富な先輩の走りに、高校駅伝と箱根駅伝の違いを知るのもこの合宿です。
 大学での春の合宿練習は、関東インターカレッジに向けてのポイント練習が中心ですから、新入生は自分のコンディションを考えて無理をしてはいけないのですが、どうしても張り切ってしまいます。
 
合宿では、起床後の朝練習から、午後の本練習、夕食後のスポーツ・マッサージと、部屋の先輩から指導を受けます。特に朝練習は、自宅から通学している大部分の高校生は、高校の部活動では経験していないトレーニング方法で、慣れるまでは少し時間がかかりました。また、スポーツ・マッサージは、駅伝選手が一番痛めやすい足首、腓腹筋、大腿筋等のマッサージの仕方を、上級生から繰り返し指導を受けます。
 足首やアキレス腱を痛めた選手の治療方法の一つとして、熱い湯で足首を温め、冷たい水で冷やすことを何度も繰り返す「温冷法」というようなマッサージ方法は、高校時代には全く知らなかったマッサージ方法だったことを思い出します。

      

  
    山中湖畔で距離を踏んだ強化合宿。清水君のかざしているのが、昭和40年前後の
 
     東洋大学陸上競技部の「部旗」。Tの文字をランニングにデザインし、コースを走
 
     る選手をイメージしている。前列右端・佐々木功君のデザイン。

 
「あいさつ」と当番活動
 
日常生活の諸々の指導の中で、東洋大学箱根駅伝チームが特に重視していることに「あいさつ」と「返事」、「当番活動」等があります。下級生は、朝練習の始まる予定時間よりも早く集合・整列し、大きな声で「あいさつ」をすることから一日のトレーニングが始まります。
 門限、消灯時間などを守ることにより、お互いにチームとしての連帯感が育まれていったように思います。門限破り等に対する連帯責任は、けっこう厳しかったですから。
 「当番活動」は、日常的な合宿寮の掃除、洗濯、食事、起床当番等がありましたが、振り返ってみますと、時代が大きく変化し、大学の体育会もこの時代の変化に対応した民主的な組織に変わりつつあるようですが、「当り前の事が、当り前のように出来ている」、部の規律がしっかりと守られているチームから、強い選手が育っているような気がします。

 
日常生活
 
陸上競技部は、野球部、ラグビー部と共に鶴ヶ島の合宿寮で生活しました。
 白山までの通学は、朝食の後、鶴ヶ島駅から東武東上線で池袋、池袋から山手線で巣鴨駅へ出て、巣鴨から都電で白山上まで乗りましたが、巣鴨駅から白山上までは、歩いても15〜20分でしたから、雨の日以外は、歩いたものです。
 合宿寮から大学までは、おおよそ2時間近くかかりました。東武東上線はいつも混雑しており、座ることなどとても出来ませんでしたから、入学当初は、毎日の通学で精一杯でした。
 昼食は大学の地下食堂か、学校前のパン屋さんでコッペパンにジャム又は小倉餡をつけてもらい、牛乳を飲みながら食べた事を思い出します。パン屋さんは、東洋大学箱根駅伝チームに大層サービスをしてくれまして、ポイント練習で距離を踏む日などは、つけるジャムの量を多くしてもらったことを、懐かしく思い出します。
 ポイント練習は、午後4時前後から始まりましたので、単位の履修も、夕方遅い科目の履修は避けてカリキュラムを組まなければなりませんでした。
 ポイント練習は、トラックでのインターバル・トレーニングとロードでの持続走、ペース走が半々くらいでしたが、坂戸、高坂方面に出るロードでの持続走は、まだ道路が舗装されていない砂利道でしたので、距離を踏んでも足腰への負担が比較的少なく、故障で戦列から離れる選手も少なかったですね。
 また、今では考えられないようなことですが、合宿所の近くに霞が関ゴルフ場、東京ゴルフ場等があり、「東洋大学の箱根駅伝チームです」と、お願いすれば、プレーの妨げにならない外周のランニングを黙認してくれました。懐かしい良き時代でした。

 
合宿寮での部屋割り
 
合宿寮には4年生の寮長がいて、起床から就寝までの諸々の部としての約束事・決まり事を部屋長に伝え、集団生活の規律を守っていました。起床時間は6時でしたが、この時間になると、起床当番の下級生が「起床!」・・「起床時間で−す!」と、大きな声で寮を一回りしました。
 部屋は8〜12畳の広さで、3〜4人が一部屋に入り、上級生と下級生が一緒に生活をしましたが、日々の生活の中で、上級生から学ぶことが多かったですね。
 私が1年生だった時の部屋長は、ボストンマラソンで2位となり、マラソンで2時間16分49秒の記録を持つ箱根山上りの名人、宍戸英顕さん。上級生は成田山・新勝寺の竹内照好さんでしたが、練習も合同のポイント練習終了後に、さらに一人で距離を踏んだり、合同のポイント練習とポイント練習の間の、フリーの日の距離の踏み方がポイント練習の持続走のようなスピードであったり、トレーニングの仕方、取り組み方が違っていました。
 また、部屋でくつろぐ時なども、お茶を飲みながら菓子類を食べるのではなく、目刺しを焼いて食べ、「目刺しは骨ごと食べるので、駅伝選手にはこれがいいんだ」と言って、食べさせてくれたことを思い出します。
 食事は、寮の食堂で、野球部、ラグビー部と一緒にとりましたが、主食のおかわりは自由でしたので、アルマイトの食器でおかわりをしました。
 合宿寮での夕食は、今では本当に懐かしい思い出なのですが、経済学部所属で教職単位も履修しますと、教職関係の授業は、遅い時間帯の授業となってしまいます。そうなりますと、夕方の本練習に合流出来ませんので、朝練習で相当距離を踏みます。夕方授業が終って寮へ帰るのは遅い時間になってしまいますから、誰もいない暗い食堂で、一人で食事をするのです。おかわりは、厨房に入って自分でしました。この時、おかずの副食が残っている時はそれで、残っていない時は醤油をかけて食べたものです。

 
「モツ鍋」が人気だった
 
合宿寮の各部屋では、寮の食事の他にそれぞれ工夫をして栄養補給をしました。
 山形の先輩の部屋では「イモ煮」、千葉の先輩の部屋では「目刺し焼き」でしたが、「モツ鍋」は、どの部屋でも、タンパク質の補給源として断然人気がありました。肉で「すき焼き」は、憧れの贅沢だったのですが、財布の中身と相談してのことですから、安くて栄養豊富な「モツ鍋」が人気でした。
 「モツ鍋」のモツの買い出し役は、部屋の下級生の役どころです。鶴ヶ島駅近くの肉屋さんへ行って、モツをキロ単位で購入し、八百屋さんで葱か白菜を調達したら準備OKです。
 部屋に帰ってヒーターでモツを煮込むのです。出来上がった頃には、モツの煮上がった美味しい香りが部屋中に漂いますから、他の部屋からの訪問者も多く集まります。「モツ鍋」を車座で囲んで食べるのですが、あっという間になくなってしまいましたね。
 食糧事情が、今のように恵まれた時代ではなかったですから、食に対するノスタルジアは、それぞれでして、「食パン一斤をそのままバターで食べたい」とか、思いは様々な時代でした。

 
東洋大学箱根駅伝チームの日常のトレーニング
 
箱根駅伝に向けての日々のトレーニングは、一週間単位での取り組みでした。
 週末と週半ばの水曜日と木曜日が合同のポイント練習の日。この日は、インターバル・トレーニングによるスピード練習と、距離を踏むトレーニングを交互に行いました。
 インターバル・トレーニングは、400×20〜25、つなぎ200ジョックか、1000×8〜10、つなぎ600のジョックが中心でした。
 このインターバル・トレーニングを簡単に説明しますと、400メートルを68秒〜70秒前後で疾走し、200メートルのジョッキングでつなぐことを繰り返します。インターバル・トレーニングでは、選手個々に心拍数の自己管理を繰り返し指導しました。400メートル疾走直後の心拍数が、180/分に、200メートルのジョッギング後の心拍数が120/分となっているかを繰り返し指導し自己管理させました。インターバル・トレーニングでは、疾走直後の心拍数が180/分からジョッギングで心拍数が120/分まで下がる過程を私たちは「黄金の休息」と呼び、トレーニングの主要な部分として位置付けていたのです。
 また、1000メートルは2分55秒〜3分前後でカバーし、600メートルのジョッキングでつなぎました。
 400メートルのインターバル・トレーニングは最後の4〜5本が、また1000メートルのインターバル・トレーニングは、最後の2〜3本が、本当の練習なのです。
 選手を指導していますと、練習の消化率や選手の性格で、その後の記録の伸びが大体予想出来るものです。1000メートル10本のトレーニングでは、最後の2〜3本をどのように取り組むか、最後の辛さは大変なものなのです。皆、このような状況であるわけで、ここでペースを3分20秒くらいに落として最後の2本を終えるのと、最後の2本を2分50秒〜3分で押し切るのとでは、全く意味が違うのです。
 私が、駅伝チームを指導していた頃は、インターバル・トレーニングの後で1600メートルリレーを最後に一本加えました。駅伝チームを4人1組に分けて1600メートルを競争するのです。これを「イチロク」と言って、松田君や神原君、小川君が後々「あれはきつかった・・」と言っていましたが、松田君や神原君が競争になると、60秒を切って、58〜59秒で走ってしまうのです。彼らはその後着実に記録を伸ばしました。
 距離を踏むトレーニングは、10マイルか20キロのペース走が中心でした。
 鶴ヶ島から坂戸、高坂方面へと続く桜並木のコースでしたが、舗装されていない砂利道でしたので、足、腰にかかる負担が少なかったと思います。

       

 
      合同のポイント練習に取り組む箱根駅伝チーム。右から二番目を走るのが監督の
 
      中野照雄氏。

 
この点、今の箱根駅伝チームの選手は大変です。練習コースがほとんど舗装され、ペースも高速化されていますから、足腰にかかる負担は、相当なものです。これが、どうしても故障に結び付いてしまうのでしょうけれども、ここを避けてトレーニングを積むことは出来ませんから、「故障をしないで距離を踏む」ための健康管理が求められます。

 
故障しないで距離を踏める選手が強くなる
 
東洋大学陸上競技部には、箱根駅伝にあこがれて5000メートルの記録が15分30秒前後の高校生が多く入学してきます。
 箱根駅伝の選手は、大きく二つのタイプに分けることができます。一つのタイプは、高校時代に800メートル、1500メートル走を得意とした中距離ランナー。もう一つのタイプが高校時代は1500メートル、5000メートルを得意とした長距離ランナーです。これらの高校生を箱根駅伝の選手として育てるわけですが、一年次より二年次、三年次と学年が上がるごとに強くなる選手の共通項は、「足を痛めないで距離を踏むことが出来る選手」です。スピードと持久力があり、有望な選手でも、故障しがちの選手は、なかなか記録をのばすことは出来ません。

 
故障しない為のシューズの工夫
 
「故障をしないで距離を踏むことが出来る選手が強くなる」と言っても、箱根駅伝選手の場合は、鍛練期で月間の走行距離が800キロから900キロ、中にはそれを超える強者も出てきます。もちろん朝練習を含んでの走行距離ですが、足腰にかかる負担は大変なものです。私は、指導者の時代から、練習後のスポーツ・マッサージを基本としたフット・ケアーと、故障しない為のトレーニング・シューズの工夫を実践しているのですが、ここでは、シューズの工夫を取り上げます。
 今の時代は、シューズも本当によく工夫され、私たちの時代とは比べ物にならないくらいに進歩しました。しかし、レース用に開発された軽いシューズは多く見かけますが、距離を踏むためのグッズを装着した、重装備のシューズが非常に少ないように思えます。
 自分の足のサイズよりもやや大きめのシューズの中に衝撃吸収用のインソール、グッズを工夫して装着し、足を故障から守る工夫が必要です。

 
夏の合宿練習
 
夏休みに入ると、陸上競技部は一旦解散となり、それぞれ故郷へ帰って一時充電します。
 春の合宿練習から関東インターカレッジ及び全日本インターカレッジと続いたスピード練習の疲れを抜くことが目的の解散なのです。多くの選手は夏の合宿が始まる8月中旬まで、合同のポイント練習なしのこの短期間、つかの間の休養に充てます。
 駅伝選手の場合、休養期間といえども完全休養をするのではなく、毎日ややゆっくりしたペースで距離を踏みながら、疲労を抜くのです。走れる状態で体と筋力を保ちながら、疲れを抜き、夏の合宿に備える「積極的な休養」期間です。
 8月中旬からの合宿練習は、東洋大学箱根駅伝チームは伝統的に霧ケ峰・蓼科高原、山中湖、大分県の九重高原で合宿しました。
 私が駅伝チームを指導していた当時を振り返って、特に印象に残っている大分県九重高原で行った第40回大会前の合宿練習を紹介します。
 大分県九重高原畜産会館での合宿は、大分県中津の先輩、池中康雄先生のお世話で実現しました。

       

 
      大分県九重高原での夏期強化合宿。畜産会館を宿舎に、涼しい高原と草原で
 
      連日距離を踏んだ。

 
九重高原は、真夏の8月でも朝晩は涼しいくらいの冷涼な気候で、宿舎の畜産会館前が1キロ以上あるなだらかな草原となっていました。このなだらかな草原、実は乳牛の放牧用の草原ですから、定期的に牧草の刈り取りが行われ、かなり手入れの行き届いた大草原でした。この畜産農家の大事な牧草地帯を、東洋大学箱根駅伝チームのために開放してくれたのですから、練習にも気合いが入りました。
 朝練習は丘陵地帯のジョッキング、午後の本練習は一周2キロメートルの牧草地を10周する持続走か、片道1000メートルの牧草地×10本のメニューでした。夏の合宿の目的は、とにかく距離を踏んで基礎体力をつけること。長い距離を走り込むことにより、身体の末端部分の毛細血管まで活性化させ、駅伝選手としての全身持久力を向上させること。最大酸素の摂取能力の向上が狙いですから、オール・アウト寸前の量的に相当負荷のかかったトレーニングを繰り返しました。
 また、この合宿では弁当を背負って、ウオーキングとジョッギングで九重山を一回りするトレーニングを中日に一日実施しました。朝9時に大分九重畜産会館の宿舎を出発し、昼食・休憩の一時間だけを挟んで、夕方の6時まで歩き、走り続けたのですが、そのねらいを「『超長距離』を歩き、走りきることにより、長距離走者として必要な強靭なる精神力と忍耐力の育成をはかる」と位置付けてのトレーニングでしたから、思い出に残っています。
 宿舎にたどり着いた選手たちが、誰からともなく草原地帯の道沿いを流れている小川に飛び込み、疲れ切った体を冷やしていた光景を忘れる事が出来ません。
 一人の脱落者もなく九重高原でのトレーニングを消化出来たことは、選手全員が、非日常的な自分と向き合い、相当困難な課題を克服することに意義があることを自覚し、取り組んだ結果だったと思っています。

 
調整期間中の都道府県対抗駅伝大会
 
箱根駅伝に向けてのトレーニングは、少なくとも6か月必要です。
 ところが、この大事な10月の走り込み期間中に、都道府県対抗の青森−東京間駅伝や、東京−新潟間の駅伝大会が行われました。青森―東京間駅伝などは、青森県を出発して7日間かけて東京にゴールするという、大イベントでした。
 東洋大学箱根駅伝チームも、山形、福島、栃木、群馬、千葉の出身者が特に多く、各県の代表として出場しましたが、走り込みと調整との兼ね合いで苦労がありましたね。
 それでもこの大会、私・加瀬の経験では、チームの中で順天堂大学、中央大学、日本大学など他大学のメンバーと行動を共にすることが多かったので、順天堂の小出義雄さん、中央の中村健司君、山口東一君などと陸上競技論を交わした思い出が強く残っています。

 
箱根の山攻略作戦
 伊香保・榛名での上り下り練習
 
箱根の5区、6区は、平地での走力だけでは攻略出来ない特殊な区間です。山の上り下りの実践トレーニングによって選手を育成しなければなりません。
 秋になると、東洋大学箱根駅伝チームは、群馬県の伊香保・榛名山の上り下りコースを「箱根の山」に見立て、合宿練習をしました。
 渋川の宿舎から、なだらかな上りが伊香保の温泉街に続き、伊香保の温泉街からは急な葛折れの坂道が榛名山頂へと続くコースは、箱根の山そのものでした。
 伊香保・榛名の山道コースでトレーニングを続ける過程で、上り、下りに適性を発揮する選手が出てきました。上体をやや前に倒し、膝から下のフローティングが素早くスムーズで、両の腕を抱え込んで走る小川勝己君が、上りで他の有力選手を圧倒し、特に伊香保温泉街からの急坂で更に適性を発揮しました。小川君の走りを見て5区候補と考え、佐々木秀幸先生に私の考えを伝えると、佐々木先生も同じことを考えておられたようで「いいですねー・・」の返事をいただき、小川勝己君の5区候補が決まりました。
 また、下りに適性を発揮したのは神原 惇君です。やや細身で、大腿筋と腹直筋が非常に強く、急な下りでも後ろに反りかえって顎を出し、ブレーキをかけるような走りはせず、自分のフォームでスムーズに長い下りを走り切る能力は、やはり神原君の天性のものだったと思っています。
 山の候補選手が決まり、さっそく箱根でレース・コースを踏ませてみると、神原君は6区の21.9キロを59分台で下りました。
 東洋大学箱根駅伝チームでは、歴代、山下りの名人が育ちました。私が指導していた昭和40年代の7年間でも、天野正二君、神原 惇君、長浜公良君などが名を連ねましたし、長浜君の時代には、神宮直仁君、伊沢徹男君もレース・コースで長浜君と競り合い、60分とちょっとの記録を出していたのですが、長浜君という名人がいたので、下りを走ることは出来ませんでしたが、伊沢君は46回大会で一区の区間賞、神宮君も47回大会で10区を区間2位で走りました。

       

 
      伊香保から榛名山頂までを「箱根の山上り・下り」に見立てて特別訓練をする
        箱根駅伝チーム。この合宿で、下りの神原君(写真右端)、上りの小川君(中
        央・松田君の後方)が適性を発揮した。

 
待たれる山下り名人の出現
 
過去の箱根駅伝優勝記録を見ると、昭和40年代には12時間前後で推移していた総合優勝の記録が、今では11時間と少しのところまで記録を短縮してきました。箱根駅伝の高速化はまだまだ続くものと思われます。特に、平地の区間での記録の短縮は、飛躍的で驚かされます。
 このような箱根駅伝の高速化の中で、記録の伸びがほとんど止まっている区間が山下りの6区です。この区間は、区間距離がしばしば変更になっておりますし、道路の舗装もコンクリート舗装からアスファルト舗装に変わったりしていますから、単純に記録だけ比較することは出来ませんが、それでも、私が指導していた昭和40年前後から記録の伸びが止まっているように感じられます。
 箱根6区の距離は、24.7キロが一番距離の長い時代だったと思います。この頃は、小田原市内に「オリオン座」と言う映画館がありまして、ここが5,6区の箱根の山上り、山下りの中継地点でした。現在の中継地点のメガネスーパー本社ビル前から、さらに1.3キロも7区寄りだったのです。
 東洋大学の山下りの名人として、天野君、神原君、長浜君の名前をあげましたが、名人の中でも特に神原君は、昭和42年、第43回大会で59分24秒の記録で山を下っています。この時の6区の区間距離が21.9キロですから、今の鈴廣前20.8キロのコースよりも1.1キロメートルも小田原寄りでした。この時の神原君の小湧園から函嶺洞門までの7.9キロをキロ単位と100メートル単位で換算した記録が私の手元に残っていますので紹介しますが、神原君は1キロ平均2分35秒。100メートルは16秒を切って、時に15秒6で下り続けているのです。宮の下の富士屋ホテル角の急カーブあたりでは、飛ぶようなスピードでした。それでも箱根湯本駅前からの平坦地で「膝が踊りを踊る」ことなく押し切ることが出来ての59分24秒です。
 私が指導していた時代から、すでに40年以上経過しているのですが、6区の山下りだけ記録の伸びが止まっている原因は一体どこにあるのでしょうか。
 これは、あくまでも私個人の仮説ですが、箱根の急坂を100メートル平均15秒5前後、1000メートル平均2分35秒を切って走り続けることは、限界に近いぎりぎりの状態なのかも知れません。七曲りのあたり、あるいは宮の下から大平台駅付近の急坂は、もう少し押せるのかも知れませんが、こうしますと、物理的に脚筋力が限界を超え、オール・アウトの状態になってしまうのでしょう。こうなってしまいますと、大腿筋、腓腹筋が強縮ケイレンに襲われ、動けなくなってしまうのかも知れません。

 
熊谷のOBの「ひとりごと」
 
6区の全コースは、舗装がコンクリートで亀甲印の網目が入った非常に走りにくいコースから、走り易いアスファルトのコースになっていますから、このコースを、神原君のような走力(3000SC 8分42秒4)と適性・・、適性は二つあります。一つは非常に強い大腿筋と腹直筋及び限界に近いスピードで下り続けても「強縮ケイレン」を起こさない身体能力。もう一つは、急な下りの連続でも上体が反り返って、顎が上がってしまい、ブレーキをかけながら走るような走り方にならずに、顎を締めた自分のフォームを維持し続けることが出来る優れた能力。そして、下り切った湯本駅前から中継点までの平坦地でも「膝が笑ったり」「踊りを踊ったり」しないでそのまま押し切ることが出来る選手が出てくれば、箱根の6区は、56分を切るような記録が可能なのではないでしょうか。

 
レース・コース
  箱根駅伝の一次エントリーが近付くと、それぞれの区間でレース・コースを踏みます。1区から10区までの候補選手が2〜3人で、実際の箱根の区間で競争をするのです。ここを勝ち抜かなければレギュラーのユニフォームは獲得出来ません。チーム内での競争が激しくなります。この頃は、2区、5区、6区等の区間はほぼ固まっていますが、3区、4区、7区、8区等の区間では、一度のレース・コースでは決着がつかずに、同じメンバーで再度レース・コースを踏みます。同じチーム、仲間での競争は辛いものです。
 
日々の練習では強いのに、レース・コースや試合になると走れなくなってしまう選手がいます。
 
精神的に弱かったり、緊張で体調を崩してしまったりと、原因は様々ですが、練習ではとてつもなく強いのに、土壇場で走れなくなってしまうのです。監督をしていて感ずるのですが、選手のタイプをしっかりと見極め、状況の変化を見抜く眼力が指導者には求められます。

 
最終エントリー
 12月29日、駅伝選手は全員宿舎の大広間に集合し、最終エントリーの発表を待ちます。一次エントリーですでに16人は決まっているのですが、走る区間はまだ正式に決まっていませんから、皆緊張した顔で発表を待ちます。

                

        
   白の長そでシャツ、胸に鉄紺色の横ライン、白い文字で「東洋大
 
          学」が、TU以前のレギュラーのユニフォームでした。

 一区から順番に名前を呼ばれ、東洋大学の箱根駅伝用の半袖と長袖のユニフォームが手渡されます。白い丸首シャツの胸の部分に鉄紺色のラインが入り、白で東洋大学と漢字で書かれたユニフォームです。この時、自分の走る区間のゼッケンとネルの布、真綿も手渡されます。これが、東洋大学の先輩諸氏が残してくれた伝統で、ネルの布と真綿は、ゼッケンの下に縫い付け、冷えからくる腹痛や低体温症を防ぐ戦略であることを言い伝えられます。東洋大学では、ワセリンかオリーブ・オイルを、走る直前に腹部と足・膝関節に塗り込むことも伝統的に言い伝えられていました。
 レギュラーのユニフォームを手にした時のあの感激は、今でも忘れる事が出来ません。

 「私の箱根駅伝回想録」の執筆を終えて

  箱根駅伝ファンの皆さん、多数の東洋大学OBの皆さん、熊谷のOB執筆の「私の箱根駅伝回想録」を最後まで読んでいただきありがとうございます。
 
薄れゆく記憶の糸をたどりながら、古い資料、写真を探し出しての作業でした。
 記憶だけが頼りの回想録ですので、数字や表現、登場するOBの説明等に整合性に欠けるところがありましたらご容赦ください。

 過日、母校東洋大学で、「私の箱根駅伝回想録」 −東洋大学箱根駅伝総合優勝への道 −というテーマで講演しました。若い学生諸君の礼儀正しさ、熱心さ、そして箱根駅伝を支援するエネルギーを身体全体に感じながらの楽しい講演会でした。

     
                                 平成21年9月19日(土)
  
                                    熊谷のOB・加瀬   忠

                                                               私の箱根駅伝回想録