黎明期の東洋大学箱根駅伝写真館

 東洋大学陸上競技部OB
 経済39年卒 加瀬 忠

 
全国の箱根駅伝ファンの皆さん、並びに東洋大学OB・関係者の皆さんお元気ですか。「私の箱根駅伝回想録」を思うままに書き綴り、掲載しましたところ、たくさんの皆さんに心温まるご意見、ご感想をいただきました。有難うございます。
 
箱根駅伝回想録に続きまして、黎明期の東洋大学箱根駅伝写真館を公開いたします。
 薄れゆく記憶の糸をたどりながら、古いアルバムから懐かしい黎明期の鉄紺OBを探し出しました。
 筆者が選手として走り、その後監督として指揮を執った昭和40年前後の箱根駅伝は、伴走のジープが認められていた時代でした。新しい時代のファンの皆さんにとっては、珍しい箱根駅伝の風景かと思います。
                                              写真提供 加瀬 忠



          

 
   昭和39年、第40回箱根駅伝大会に向けての強化合宿は、千葉県銚子市で行われた。「東洋の
     ドーバー」として知られた名洗海岸・屏風ヶ浦を中心に連日距離を踏んだ。

       


 
   千葉県銚子市名洗海岸・屏風ヶ浦でトレーニングする東洋大学箱根駅伝チーム。向かって左から
     筆者・加瀬、松本孝夫君、天野正二君、渡辺和夫君。

       


 
   昭和39年、関東インターカレッジに向けての春期強化合宿は、静岡県草薙陸上競技場で行われ
     た。元気の良い一年生の入学したこの年の箱根駅伝大会は、総合4位の好成績であった。
     後列左から、村田君、中村君、安西君、小川君、中列左から松田君、鶴岡君、小池君、前列左
    
から川鍋君、松本君、筆者・加瀬、渡辺君、神原君、天野君、岡君、大竹君。

       


 
TU鉄紺ユニフォームの歴史
 
加瀬 洋君が、20キロ競歩で日本学生記録を樹立した全日本競歩青梅大会のゴール。黎明期の東洋大学競歩チームは、加瀬 勇君、加瀬 洋君の兄弟、鳥越 明君等の活躍で、関東インターカレッジ等では無敵であった。
 
加瀬 洋君の身につけているユニフォームが、Tだけが入った白の「Tシャツ」から、TUの組み合わせに変わったユニフォーム。この後、TUを白でランニングの色が鉄紺に変わり、さらにTUを鉄紺色、縁取りを白の、今の東洋大学のレギュラー用ユニフォームが出来上がった。
 
なお、TUの組み合わせは、当時米大リーグのニューヨーク・ヤンキースのNYの組み合わせが格好良く、佐々木 功君のデザインで出来上がったのです。

 
第44回大会、東洋大学は9区後半まで先頭を走る

       


 
6区湯本駅前を快調に通過する長浜公良君。日大、中大、順大に続き1時間00分43秒の区間4位の記録で、7区樋口良太君にタスキを渡す。箱根の山を下ってきた6区走者は、湯本駅前から小田原中継所までの平坦地が、上り坂に見えるという。写真の長浜公良君、そして天野正二君、神原 惇君など、東洋大学歴代の6区走者は、箱根湯本駅前からの最後の平坦地が強かった。
 長浜君のフォームをご覧いただきたいのですが、強い腹直筋と大腿筋、大臀筋で腰をしっかりと支え、顎が上がらず、腕も前後に正しく振られ、これが箱根の山を下り続けてきたランナーかと思えるようなきれいなフォームを保っています。6区の下りは、ここからが勝負どころで、湯本駅前あたりから、膝が踊り始めては、すぐに2〜3分離されてしまいます。6区は、実に難しい区間です。

       



 
   7区小田原〜平塚間で順天堂大学久田君と、激しいデッドヒートを繰り広げる東洋大学樋口良太君。
     樋口君は日大、順大を抜き1時間11分14秒の区間2位の力走で、チームの順位を2位に上げる。
     後方ジープの伴走車は、左・佐々木秀幸氏、右・筆者。

             


 
         第44回大会、8区平塚中継所でアップする山本哲君。
           7区樋口良太君から2位でタスキを受け、この区間で
           先頭に立つ。山本君のTUのユニフォーム、半そでシ
           ャツは佐々木功君のデザ
インで、この後の東洋大学の
           レギュラー用ユニフォームとなる。

      

 
8区平塚〜戸塚は、レース後半に遊行寺の長い坂があるのですが、山本君はペースを乱すことなく押し切り、1時間4分37秒の区間賞を獲得する。
 
TUのユニフォームの箱根デビュー戦でもあります。山本君の着ているトレーニングウエア(写真上)は、上下鉄紺色のウエアにTUのマークで、現在と同じ鉄紺色に白の縁取り。レース用の半そでシャツは、白のTU。この年の箱根駅伝レギュラー用のユニフォームは、まだどちらとも決まっていなかった時代です。この後、現在の白の縁取りのあるTUがレギュラーのユニフォームとなる。

      


 
  9区横浜駅前付近を先頭で走る佐々木功君。1時間18分28秒の区間3位での力走。東洋大学
    は、第44回大会で、8区の藤沢橋付近から、9区の横浜駅前まで先頭を走る。並走するのは9
    区で追い上げてきた日大・藤田国夫君。    
                                   
写真 読売新聞社提供

      


 
  昭和38年、横浜の三ッ沢陸上競技場で行われた全日本インターカレッジ。旗手は校友会・神奈
    川の村越光矩君。東洋大学陸上競技部の公式試合用ユニフォームは、白の上下に鉄紺色でTのマ
    ークであった。

      


 
  関東インターカレッジ、マラソンのスタート。昭和40年前後の関東インターカレッジのマラソ
    ンは、出発が青梅市役所で、42.195キロの距離で競われた。佐々木功君、横堀泰寛君(右
    端)等の顔が見える。

      


 
  東洋大学陸上競技部恒例の新入生歓迎マラソン。東武東上線志木駅前から、川越街道を大回りし
    て、鶴ヶ島の陸上競技部合宿寮までの20キロを走る。中列に3、000SCで日本記録を樹立し
    た松田信由君、神原 惇君の懐かしい顔も見える。

      


 
  昭和39年春、関東インターカレッジを目指して静岡・草薙陸上競技場で行われた強化合宿全員
    集合写真。右端、佐々木部長、前列に笠松コーチ、金井氏。

      


   
第1回全日本大学選抜能登半島一周駅伝スタート前の写真。東洋大学のスタートは、元気の良い
    スピード・ランナー伊沢徹男君、左端佐々木秀幸氏、中央右手をかざしているのは、日本体育大
    学岡野監督。

      


  
 第1回全日本選抜能登半島一周駅伝で先頭争いをする、左から東洋大学田中末喜君、日本体育大
    学・小沢欣一君、愛知・中京大学加藤 了君。

      


 
  第38回大会、8区平塚〜戸塚間を走る加瀬 忠選手。湘南海岸の防砂林もまだ人の背丈ほども
    なく、海岸が見渡せた。後方から追ってくるのは、法政大学関根君。


        

 
 第38回大会、9区戸塚中継所でタスキリレーをする東洋大学チーム。この時代の箱根駅伝選手
   は、長袖か半袖のユニフォームを着ていた。筆者・加瀬 忠から、9区ランナー福田太加之選手
   にタスキが渡る。

     


 
 昭和40年前後までは、白のシャツ、胸に鉄紺色の横ライン、白で東洋大学が箱根駅伝レギュラ
   ーのユニフォームであった。9区平塚中継所でタスキリレーを終えた筆者・加瀬 忠。

     


  
静岡・草薙陸上競技場で行われた春の強化合宿。前列左から二人目は、20キロ競歩で日本学生
   記録を作った加瀬 洋君、一人おいて3000SCでメキシコオリンピックに出場した松田信由
   君、箱根山上りで活躍した小川勝己君、中列左から二人目は樋口良太君、山本 哲君。後列左端
   は、マラソンで活躍した野村栄樹君。

     


 
 昭和39年春、静岡・草薙陸上競技場での中長距離グループのスナップ。前列左から川鍋君、松本
   君、筆者、渡辺君、神原君、岡君、天野君、大竹君、後列左から松田君、鶴岡君、村田君、小池君
   中村君、安西君、小川君。


       

 
 大分県九重高原での合宿風景。この日は、朝から夕方まで一日かけてウォーキングとジョッキ
   ングで九重山を一周した。
左から内野君、神原君、新井君、加瀬、松田君。

       

     松田信由君、小川勝己君と、筆者のスナップ。



       

 
昭和39年度新入生歓迎マラソンを終えて、鶴ヶ島の陸上競技部合宿寮での写真。左手の建物は黎明期の合宿寮で、川越女子高校の校舎をそのまま合宿寮に移転した。向かって右手には、東武東上線が走っており、鶴ヶ島駅までは線路沿いをよく歩いたものです。
 
過日、合宿寮近くの東武東上線の無人踏切を渡り、獣道をたどってみたのですが、昔懐かしい店々は、すべてなくなっていました。

     


 
 伊香保から榛名山頂までを「箱根の山上り・下り」に見立てて特別訓練をする東洋大学箱根駅伝
   チーム。この合宿で、下りの神原 惇君(写真右端)、上りの小川勝己君(中央・松田君の後方)
   が適性を発揮した。



          

 
     鶴ヶ島の合宿寮近くを走る東洋大学陸上競技部メンバー。40年以上前の鶴ヶ島
       は、見渡す限り武蔵野の雑木林であった。また、道路も舗装されていない砂利道
       であったので、距離を踏むにも、足腰への負担は少なかった。

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