銚子・外川港の歴史

        ― 外川の港を築いた紀州の漁師「崎山治郎右衛門」 ―

                             マドリッド日本人学校
                             元・校長  加瀬 忠



  銚子半島の東端に位置する外川の街
 JR総武本線の終点銚子駅で下車し、そのままJRのホームをまっすぐに進むと、銚子電鉄始発の銚子駅に到着します。銚子電鉄は、始発の銚子駅から終点外川駅までの6.4キロを、銚子半島をそのまままっすぐ東へ進み、のんびりと約20分かけて走る一両編成のノスタルジックなローカル鉄道です。銚子電鉄の車窓から眺める沿線風景は、犬吠埼灯台の遠景や太平洋外海の荒々しい波の音に、しばし、多忙な日常を忘れ、非日常的な時間と空間に思いを馳せることが出来る一時です。

  銚子電鉄の小さな駅

                  
 
銚子電鉄始発の銚子駅は、オランダの風車をイメージして設計されました。駅員は誰もいない駅舎で電車の発車時間を待ち、時間になると車掌さんの案内で電車に乗りますが、車掌さんから切符を買い、車内に一歩足を踏み入れると、そこはもう昭和の時代へタイム・スリップしたような世界です。前方の赤い電車が銚子電鉄です。

 
銚子電鉄沿線の風景

 犬吠駅と犬吠埼灯台
 
犬吠駅は、友好関係にあるポルトガルのロカ岬にちなみ、もだんなポルトガル風に設計された駅舎です。駅構内の売店では、名物の「ぬれ煎餅」を目の前で焼いてくれますし、銚子特産のサンマやイワシの佃煮も並んでいます。

    
    

 
犬吠埼灯台は、明治7年(1874年)、英国人のリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で造られた一等灯台です。階段を頑張って上ると灯台の展望台からは、太平洋の外海を見渡すことが出来、地球が丸いことを実感することが出来ます。


  鰯漁で栄えた坂の街・外川
   銚子電鉄の終点外川駅で下車し、駅前広場を左折すると、外川港へのゆるやかな坂道が目につきます。なだらかなスロープを海に向かって進みながら、外川港の歴史や外川の街を切り拓いた江戸時代の先覚者、紀州の漁師・崎山治郎右衛門に思いを致すのも、漁師町外川の思い出になると思います。
 外川駅から阿波通り(あんばどおり)を港に向かって下りながら、外川の街には同じような坂の通りが港へ向かって何本もあり、それぞれの通りは、海と並行に整備された横道が直角に碁盤の目のように交差している造りに気づきます。外川の街と港の造りは、自然発生的に出来上がった街と言うよりも、漁師街の生活に適した合理的な街造りであることに気づかされます。

 紀州の漁師・「旅網」
 
銚子の沖合には、古くから鰯の大群が押し寄せ、江戸時代にはその鰯を追って、紀州方面からの漁師が多く「旅網」として操業し、獲れた鰯を「干鰯(ほしか)」に加工して、肥料として江戸や紀州に売り出していました。「干鰯」を加工する為には、獲れたイワシを干し上げる「干鰯場」が必要です。外川の港では、干鰯場を日和山(ひよりやま)の上に造りました。獲れた鰯を干鰯場に運び、出来た干鰯を再び外川港に運び出す為に、外川の坂道は、外川漁港の産業道路の役割を果たしていました。今でもところどころに残っていますが、坂道は滑らないように、全て石畳にし、外川の街の漁師の安全にも気を配った造りになっていました。


                
 
        外川駅の到着ホーム。駅にも出札口にも駅員はいません。
          私が銚子高校へ通学していた時代には多くの駅員がいたの
          ですが、時代の変遷を感じます。

      


 
銚子電鉄終点の外川駅は、大正12年の銚子電鉄開業時の駅舎そのままです。銚子は漁業と共に、醤油の街としても有名ですが、駅のホームや駅前広場のベンチに「ヒゲタ醤油」や「ヤマサ醤油」の名が刻まれているのも、漁業と醤油の街・銚子を感じさせます。

 
外川の街

      


      

 
外川の街は、外川浦から日和山へと続くなだらかな丘陵に沿って開かれました。「新浦」からも、「本浦(もとうら)」からも日和山に向かって真っすぐな坂道が作られ、坂道は丘の上の「干鰯場」へと通じていました。また、家と家とは坂道と直角に交差する横道でつながっています。今の時代にも生活道路として通じる、機能的な街づくりに感心させられます。
 外川の漁師の家々の造りを良く見ると、横道に面して窓があり、その窓からは海を見つめることが出来るように設計されています。地元の漁師の話では、朝起きて、その日が「凪(なぎ)」か「時化(しけ)」なのかを判断するのに都合の良い造りにしていたのだそうです。

      
 
     日和山のなだらかな丘陵地帯を切り開いて造成された外川の街。

 
Tokawaura's(外川浦) construction instantly.

          

 
外川の街と港それに堤防は、日和山から切り出された、たくさんの石を積み上げて造りました。外川港の堤防は、石を積み上げただけの造りではなく、石と石の接着のために、「鉛」を使って作り上げました。その為に、過去にさかのぼって何度も押し寄せた津波や高潮にも耐え、外川の街を守ったと、古くから言い伝えられています。

 Eight slopes of the Tokawa town

「王路(おうみち)」 王路は、千葉県香取郡東庄町にある「東大社」の20年に一度の銚子大神幸祭「地元では『おおじん様』と言っている」の折に、御神輿(おみこし)が外川の浜へ「御浜降り(みはまおり)」した後にこの道を「御神幸(ごしんこう)」した故事に習い、「王路(おうみち)」と呼ばれるようになりました。

2  阿波通り (あんば どおり) 外川浦の渡海神社は、和銅2年(709年)航海と漁業の安全を守る「守護神」として外川浦の日和山に建立され、その後、さらに大漁を祈願する為に大杉神社が建てられました。大杉神社の総社は、茨城県稲敷市阿波にあることから、地元では大杉様を「阿波様『あんばさま』」と呼んでいたことから、「 阿波通り(あんばどおり)」と、呼ばれるようになりました。

     


3  長屋通り (ながやどおり)  外川港と外川の街の開拓者である、崎山治郎右衛門の長屋を始め、紀州から移り住んだ多くの漁師がこの通りの長屋に住んでいたことから「長屋通り」と、呼ばれるようになりました。

4  新浦通り(しんうらどおり) 現在の 外川漁業協同組合のある外川漁港のあたりに、新浦の堤防があったことから「新浦通り」と呼ばれるようになりました。

5 一条通り(いちじょうどおり) 外川漁港から真っすぐに小畑の集落を抜け、本銚子(もとちょうし)、飯沼観音様(かんのんさま)を経由して行くと、銚子の街にたどりつくことから、「一条通り」と呼ばれるようになりました。

 一心通り(いっしんどおり) このあたりは、江戸時代から外川の街の中心地であったことから、「一心通り」と呼ばれていました。

        

 本浦通り(もとうらどおり) 坂を下ったその先に、外川の本浦港(もとうらこう)があるところから「本浦通り(もとうらどおり)」と呼ばれるようになりました。

        

 条坊通り(じょうぼうどおり) かつて、この通りに「西宝寺(現在の宝満寺)」があったことから「条坊通り」と呼ばれるようになりました。

 大杉神社
  外川駅から阿波通りを外川港に向かって下ると、左手に大杉神社が見えてきます。大杉神社正面入り口には、大きな記念碑が建てられていますが、記念碑には、「銚子漁業発祥地外川港開祖 崎山治郎右衛門碑」と刻まれています。
 
崎山治郎右衛門は、外川の街と外川港の開拓者として、今でも土地の人々に畏敬の念をもって受け継がれており、神のように信仰されています。
 大杉神社は、高神の日和山の中腹に立地していますが、銚子市の古文書によると、ここには、もともと渡海神社があり、多数の漁師の信仰を集めていたのですが、外川を襲った大津波で渡海神社は流されてしまい、渡海神社は976年(貞元元年)に現在地の高神西町に移り、渡海神社の跡地に大杉神社を建てたと、記されています。大杉神社の標高は、14メートルですから、過去の大津波は、14メートルの神社をも飲み込んでしまったのです。

        

      

      写真は、大杉神社と大杉神社入口に祭られている崎山治郎右衛門
      の
記念碑です。崎山治郎右衛門は、「まかせ網」でイワシを獲り
      ました。

「まかせ網漁」
  まかせ網漁とは、「まかせ網」と呼ばれる大きな網を漁船で引き、イワシの大群を囲って獲る漁法の事を言います。紀州(現在の和歌山県)の漁師は、江戸時代に大きな網を使って鰯を獲るこのような漁法を伝えました。「まかせ網」漁で大量に獲れた鰯は、「干鰯」に加工され、紀州や関西そして江戸で、綿花やミカン等の栽培肥料として大量に消費されました。

「干鰯(ほしか)」
  江戸時代の農業は、肥料として草木灰や下肥(人糞・尿)を使うのが一般的でしたが、下肥等よりも軽くて効きの良い、天日で良く乾かした「干鰯」を使うようになりました。 「干鰯」とは、獲れた鰯を浜の「干鰯場」で、一週間から10日ほどかけて天日で干し上げた「干した鰯」の事です。

  I wrote about the history of the Tokawa harbor. However, not all Tokawa's histories have written yet. I am going to further cover and to write part 2.
                         February, 2015.  Tadashi Kase.

                   外川・高神の守り神 長九郎神社へ

                   To My hometown CHOSHI

                  To Eight slopes of the TOKAWA